【市川みらいアーカイブ】グルメ・農業・漁業 「イチゴ、桃、梨の名産地と報じられていたのは、85年前のこと」
グルメ・農業・漁業
『市川市が誕生したころ』(市立市川歴史博物館)の36ページに、1939(昭和14)年の新聞(東京日日新聞千葉版)記事が掲載されていました。「イチゴ、桃、梨の名産地でもあり一帯を一般の清遊地として設備をし銃後をゆたかにすべきであらう」と書かれています。
こう報じられた日に第二次世界大戦が始まります。そして日本は1941年(昭和16年)に太平洋戦争を開戦。
「市川の特産品だった梨や桃の木は切られ麦やジャガイモが植えられた。また明治三十五年から栽培され、東京市場の一割以上を占めていた市川のイチゴ畑は水田となり、市川の果物は完全に中断されていた」と『写真で見る わがまち市川』113ページに記載されています。
イチゴと桃については、名産地というイメージが市川にはもうありませんね。
〇梨
江戸時代だった約230年前に、市川市で梨の栽培を始めた川上善六(かわかみぜんろく)氏。1789~1801年の寛政年間に、美濃と尾張を訪れ、梨の栽培方法を学びました。尾張藩の許可を得て、梨の枝を八幡に持ち帰ったところ、梨の栽培が成功し、八幡を中心に梨栽培が盛んになったのです。
市川大百科事典 い 市川の梨 いちかわのなし
市川大百科事典 り 梨祖 りそ
〇桃
大正の頃まで、市川は東京のリゾート地でした。江戸川はスイミングスポットで、桃林が名物だったとのこと。
六代目中村勘九郎さんの曾祖母に当たる女性が切り盛りしていた割烹旅館の「松桃園」が、京成電鉄市川真間駅南口のすぐそばにあったそうです。大正の頃のようです。
京成電鉄菅野駅の周辺には桃林を再現させたほうがいいんじゃないか問題
〇イチゴ
1902(明治35)年から1965(昭和40)年頃まで新田はイチゴの産地で、「市川の朝摘み苺」として有名だったそうです。
そして新田だけでなく、国分の農家でもイチゴを栽培していたのだと、サンファーム・シノダの篠田寛徳さんからお聞きしました。
イチゴといえば栃木が有名ですが、当時は栃木の農家の人が市川に視察にきて、イチゴ栽培を学んだそうです。驚きです。
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〇トマト
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国分トマト物語 次回は3月に!
〇松
クロマツはマツ科マツ属の樹皮が黒いマツで、「市川市の木」に指定されています。
市川市の中央部を東西に横切る砂州が形成された縄文時代後半期に、クロマツが自生したと推測されていました。
八幡5丁目近辺。道路からニョッキリ松が生えていてとても危ない案件
作家の永井荷風はカゴを持って松ぼっくりを拾い歩いていました。着火剤として使ったようですね
実感する写真の力 ~永井荷風が歩いた市川
市川市の木である松が、マイケル・ジャクソンのゼロ・グラヴィティをしている案件を探りました。
地蔵山の松 |
ゼロ・グラヴィティ松案件1 京成電鉄菅野駅からほど近い諏訪神社とJR市川駅の北側にある地蔵山
ゼロ・グラヴィティ松案件2 三本松
ゼロ・グラヴィティ松案件3 「上腕二頭筋のように盛り上がっている」
ゼロ・グラヴィティ松案件4 菅野2丁目近辺。ゼロ・グラヴィティ松ストリート
ゼロ・グラヴィティ松案件5 葛飾八幡宮。松だけゼロ・グラヴィティ
〇海苔
江戸時代に徳川家康が行徳の塩の生産を奨励したのですが、その後、大津波で塩田が被害を受けてしまい、代替として海苔漁が始まったのだそうです。
市川産! 豊かな東京湾の恵みを蓄えた海苔の直売は6月30日まで ~福田海苔店
〇グルメ
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