実感する写真の力 ~永井荷風が歩いた市川
妙行寺は永井荷風が見た頃から、どのように変わったのでしょうか |
---
戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、全く思い掛けない仕合せであった。
--- 『葛飾土産』永井荷風
晩年を市川で暮らした永井荷風は、古きよき東京の懐かしい風景を市川に見たようですね。
大正12年(1923年)の関東大震災で莫大な被害を受けた東京。その後の復興事業で、都市化が進んだようです。耐震・耐火性能に優れる鉄筋コンクリート造の建物が増えたのです。
さらに昭和20年(1945年)に東京大空襲で永井荷風は罹災。東京は焼け野原になりました。
その翌年に、市川に移り住みます。永井荷風が67歳のときのことでした。
冒頭で紹介した『葛飾土産』は71歳のときに刊行された作品です。
永井荷風は、人々の暮らしと自然とが切り離されているのではなく、生活圏の中に果樹がある風景を好んだようです。
東京から消えていった風景が、当時の市川には残っていたのでしょう。
---
半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立っている。
---
永井荷風は懐かしい風景を求めて、市川を散策し、『葛飾土産』に書き綴ったのでしょうか。
なるほど……と思う一方で、今ひとつピンとこないというか、駅の近くに限っていえば、東京の住宅地と市川は変わらない気もしていました。
永井荷風が暮らした頃と今の姿があまりにも違うので、市川についての描写に現実感がなく「ふーん……」という感じでした。
ところが、3枚の写真を見て「これが、永井荷風が見た風景だったんだ」とわかったのです。写真が収載されているのは『新潮日本文学アルバム 永井荷風』(新潮社)、『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(著/永井永光、水野恵美子、坂本真典 新潮社)。
---
わたくしは日々手籠をさげて、殊に風の吹荒れた翌日などには松の茂った畠の畦道を歩み、枯枝や松毬を拾い集め、持ち帰って飯を炊ぐ薪の代りにしている。
---
『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』より |
写真を見ると、巨大な松の木々の後ろに柵があり、果樹が栽培されているのでしょうか。
それにしても70代の男性が手籠を持ち歩いて、松ぼっくりを拾っていたとは!
『新潮日本文学アルバム 永井荷風』より |
『新潮日本文学アルバム 永井荷風』より |
![]() |
今昔マップより |
今昔マップからも、江戸川放水路の水門が、今の総武線の線路の近くからでも見えたほど、だだっ広い水田地帯だったことがわかります。
永井荷風が亡くなってから、およそ60年。当時の写真を見たことによって、『葛飾土産』にグッとリアリティがわいてきました。これが写真の力なのでしょうね。
Leave a Comment