「新浜鴨場」が、新浜(にいはま)にあるけど「しんはまかもば」の理由

 宮内庁が管理している、千葉県市川市の「新浜鴨場」は「しんはまかもば」と読みます。所在地は市川市新浜(にいはま)です。地名と読み方が異なっているのです。



 その理由は、東京都中央区の浜離宮にあった鴨場が、千葉県市川市の干潟に新設されて、「新しい浜(浜離宮の『浜』)」ということで「しんはま」と呼ばれたからとのこと。

 浜離宮については、1652年に、徳川4代将軍の家綱が、縁戚である甲府藩主の松平綱重に下屋敷として渡したことが始まり。「甲府浜御殿」、「海手屋敷」などと呼ばれていました。
 6代将軍家宣(1709~1712年)の頃に将軍家の別邸となり、名前を「浜御殿」としました。ここで、天皇の勅使として江戸を訪れた公家を接待しました。

 11代将軍家斉は、鷹狩で浜御殿を頻繁に訪れました。
 鴨場は、浜御殿の庭園内で鷹狩を行う場所で、まず、飛ぶのが下手なアヒルを池(「溜り」「元溜」)で飼い、木の板をたたいてカン、カン、カンと音を立てると、池につながる堀(「引堀」)でエサを与えます。こうやって飼い慣らすと、音を立てるとアヒルは堀に入ってくるようになります。
 池に野生のカモがやってくるシーズンに、鷹狩を行います。音を立てるとアヒルは堀に入っていくのですが、その後ろをなぜかカモがついてきます。こうして堀に入ったカモは、堀の両脇から人間が現れるとびっくりして飛び立ちます。バタバタと飛ぶカモをタカで狩るというわけです。

 明治に入り、1869(明治2)年に徳川将軍家の別邸から皇室の離宮となり、「浜離宮」と改称されました。また、狩猟も鷹狩ではなく、絹糸で作られた手持ちの網「叉手網(さであみ)」を使って、カモが飛び立つところを捕獲する技法になりました。
特別名勝・特別史跡 浜離宮恩賜庭園「鴨場」の文化を伝えるより



 現在の新浜鴨場である「新濱御猟場」は、市川市の行徳地区で干潟があった場所に、1893(明治26)年に開設されました。
1902(明治36)年測図(左側の地図、右は現在。今昔マップより


 市川市については1934(昭和9)年に誕生し、新浜鴨場が位置する東葛飾郡南行徳町については1956(昭和31)年に市川市に合併しています。
広報いちかわ2024年(令和6年)1月1日 No.1727より



 市川市のデータ「市川のまち 地名の由来 №34」によると、「新浜」という町名ができたのは1974(昭和49)年とのことです。
 地図を見ると、高度成長期に埋め立てが進んで、町ができているのがわかります。
1932(昭和7)年測図(左側の地図、右は現在。今昔マップより

1966(昭和41)年測図(左側の地図、右は現在。今昔マップより

1976(昭和51)年測図(左側の地図、右は現在。今昔マップより

 埋め立てによって新浜3丁目ができたのが1980(昭和55)年。
 このように、新浜はもともとは田んぼや干潟、浅瀬で、人が住んでいなかったために、町名はありませんでした。ですから新浜鴨場が町名の由来ではないでしょうか。宮内庁の施設の「しんはま」をそのまま使うのがちょっと……ということで、「にいはま」にしたと推測します。違っていたらスミマセン!

■主な参考資料
令和7年度新浜鴨場見学会での説明

鴨の捕獲・鴨場の接遇

市川の地名

Hama-rikyu Gardens浜離宮恩賜庭園

特別名勝・特別史跡 浜離宮恩賜庭園「鴨場」の文化を伝える
~「叉手網(さであみ)」製作の技能伝承と普及啓発の取組について~
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