石とコミュニティとの深い関係 その7 ~田尻の橋楽橋と八幡の藪知らずの共通点

 江戸後期に田尻に橋楽橋を架けた伊勢屋宇平衛。

■石とコミュニティとの深い関係 その6 ~田尻の橋楽橋

 『白井町の文化誌』(著/鈴木普二男)によると、旧江戸崎下新宿に住んでいた瀬尾權六の三男として、伊勢屋宇平衛は生まれたのだそうです(江戸崎は、茨城県稲敷市内の地名)。そして江戸浅草花川戸の醤油酢問屋である伊勢屋飯田家を継いだとのこと。

 伊勢屋宇平衛が各地に橋を架けたことは「石とコミュニティとの深い関係 その6 ~田尻の橋楽橋」でも紹介したのですが、橋の一つである「志らすばし」の石碑が市川市八幡2丁目8にある不知八幡森(しらずやわたのもり)、別名「八幡の藪知らず」に「移された」と『白井町の文化誌』に記述があるのです。

市川市八幡所在の「八幡の森」に移された「志らすばし」の石碑総高一二六・〇cm、幅七四・〇cm、厚さ七・〇~一七・〇cmからその一端が窺える。
現在の境川で国道十四号の境橋辺りと考えられるものである。

 上の文の「境川」は、現在は真間川です。また「志らすばし」で検索しても何も引っ掛かりません。実際の石碑の写真を見てみましょう。


 あまりにも達筆すぎて、読めない……
 それにしても、筆で書いたかのように文字が彫ってあるところが、スゴイの一言。

志らすばし(とは読めないのだが……)
江都浅草花川戸町

○ いせや 宇兵衛

常陸國信太郡江戸崎
世話人○○
名主
加藤又○○

 さらに、「不知八幡森」の石碑も、地元の名主である加藤又左衛門の協力で、伊勢屋宇平衛が建立したのだと『白井町の文化誌』に書かれていました。




  再建
安政 丁 巳春

常陸國信太群江戸嵜
瀬尾權六三男

不知八幡森

世話人 加藤亦左衛門
浅草材木○
石工亦右衛門 
 
江戸浅草花川戸町伊勢屋宇兵衛造之

別當 法漸寺二十○○
元世話人 中村屋與兵衛

 「再建」とあるので、当初のものは壊れるなどのトラブルがあったのだと思われます。
 法漸寺は天台宗・東叡山寛永寺(上野の寛永寺)の末寺で、江戸時代まで葛飾八幡宮の境内にありました。明治の神仏分離で廃寺となってしまいました。
 また、「與」は「与」の旧字体で人名用漢字です。

 八幡の藪知らずには、石碑が3つあり、奥から不知八幡森→志らすばしと来て、小さな石標が並んでいます。この石標に彫られた文字が、読めない……


○尺○○
寅車
○○八幡大○神
御線日毎月一日

當宿 世話人 
五代目
中村屋
與兵ヱ
市川根本
石工 長兵ヱ

 葛飾八幡宮で定期的に行われていたイベントを知らせるような石標の気もするし、違う気もするし……

 話を志らすばしに戻すと、「国道十四号の境橋辺り」にあったようなので、境橋まで足を運びました。

 真間川の下流で境橋を撮影すると、以下のようになります。
 なかなか凝ったデザインね。では逆サイドを見てみましょう。


 めっちゃサビサビやん……

 どうやら、ここにもハイソ真間川問題があったようです。下流へと向かって、「ハイソ」か「じゃないほう」なのか、検証していきましょう。

■ハイソ真間川はどこからどこまでなのか問題


 サビサビは、「おにごえほどうきょう」。車は通れません。

 その次の橋も、「じゃないほう」です(名前はわからず……)。


 次の橋も「じゃないほう」。

 「おにたかはし」です。
 鬼越から鬼高。その関係性については、鬼高自治体のホームページで説明されていました。

耕地整理以前のこの地域は、江戸時代より鬼越村、高石神村(当時中山村の大字)の飛地が入り乱れていて耕地整理が終了しても区分をするのに困難を来していました。そこで中山村では現在の総武線以南の地域を一括して、鬼越の「鬼」と高石神の「高」をそれぞれの大字から一字取り、新たに「鬼高」と名付けました。 
http://www.onitaka.jp/%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%83%BB%E5%90%8D%E6%89%80/

 さらに下流へと進んでみましょう。
 見えてきたのは「じゃないほう」の橋。

 「なかやまはし」。
 あれ? この資源回収袋は……

そうです、船橋市!


 「なかやまはし」の南側には「新川通り」とあります。


 「なかやまはし」の上から、下流の光景を撮影しました。真間川は船橋市に入ってからも、どうやら「じゃないほう」が続いていくようですね。

 以上、ハイソ真間川問題の続編でした。




 最後に、ケチをつける気などまったくまったくないのですが、本当に「志らすばし」なのかを検証したいですね……
 読めないんですもの……
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