石とコミュニティとの深い関係 その6 ~田尻の橋楽橋

 千葉県道179号船橋行徳線を歩いていたら、出くわしたのが橋楽橋の石碑。
 この石碑は、湯治と関係があるようです。

 湯治の歴史は古く、『伊予国風土記』では、聖徳太子が596(推古天皇4)年に、現在の道後温泉である伊豫温湯(いよのゆ)へ行幸したとのこと。

 湯治が盛り上がるのが江戸時代で、庶民の間にも温泉の利用が普及していきました。
 全国に大名が統治する藩が置かれ、それぞれの藩は参勤交代を行うため、東海道や中山道、奥州街道など街道が整備されました。それで旅行しやすくなりましたが、誰でも自由に旅行ができるわけではなく、湯治が目的と届出をして通行手形を得る必要がありました。
 江戸時代には、湯治に関する本も出版されていたそうで、人気ぶりがうかがえます。


江戸時代後期には庶民向けの旅行の心得を記す『旅行用心集』(1811)に「上ハ王侯より下庶民に至る迄湯治すること今に盛也」と全国292箇所の温泉地が記されるほど湯治が盛んになった。湯治者は、3廻り(21日)前後の間、温泉地に滞在する。この背景として江戸時代の湯治は、医療として認知されており、農民は農閑期を利用して温泉地を訪れ、武士は藩に認められれば往復の道中も含めて3廻り程度(3週間)の「湯治休暇」が与えられた。また滞在は主に自炊であり、食材、寝具、生活道具も持ち込みや購入でき、経済状況に合わせた長期滞在生活が可能であった。草津の光泉寺には、湯治中に死去した湯治者の無縁仏が残されており、治療の場としての痕跡を残している。

 そんな江戸時代後期の1779(安永8)年に、伊勢屋宇兵衛は、現在の茨城県稲敷市江戸崎で生まれました(生年については『白井町の文化誌』(著/鈴木普二男)を参照)。30歳で江戸の浅草花川戸に移り住み、醤油酢問屋として財を成したといいます。
 1830~1843年辺りで、伊勢屋宇平衛は群馬県の草津温泉で湯治をし、長年の病が全快したそうです。それに感謝して、草津への道筋の沢に土橋(丸太を隙間なく並べて橋面を作った上に、土をかけて踏み固めた橋)や石橋を架けました。この橋が「伊勢宇橋」です。
 当初、末広がりの88カ所に伊勢宇橋をかける予定だったようなのですが、勢い余ったのか、出身地から江戸日本橋に至る100カ所にも橋を架けた模様。
 しかし、神奈川県西部の南足柄にも2カ所で伊勢宇橋があるほか、静岡県駿東郡小山町竹之下に伊勢宇橋があるという情報もあり、定かではありません。

 そんな伊勢屋宇兵衛を研究している人が、千葉県白井市にはいるようです。
伊勢屋宇兵衛は現在の茨城県稲敷市江戸崎で安永7(1778)年に生まれ、30歳の時に江戸・浅草に出た後に醤油・酢問屋として財をなし、慈善事業として関東周辺に88の橋を架けたとされる人物です。

現在、伊勢屋宇兵衛が架けた橋で現存するのは彼の出身地である茨城県稲敷市江戸崎の瑞祥院境内にあるものが唯一となっていますが、かつて伊勢宇橋があったことを示す石碑が各地に現存し、伊勢宇橋がかつて架かっていたことの証となっています。白井市の伊勢宇橋の碑もその一つです。

白井市にある伊勢宇橋の碑は、白井地区にある神崎川の土地改良記念碑2基と共に安置されています。碑の正面には「伊勢宇橋 八十六ヶ所目 常陸国信太郡江戸嵜 瀬尾権六三男 江都浅草花川戸町 伊勢屋宇兵衛架之」と刻まれており、保存されていることで白井市にある「伊勢宇橋」の存在、そして伊勢屋宇兵衛について調べてみたいと思う各位の期待に応えることが可能となっています。

白井市における伊勢屋宇兵衛研究は当会の前会長である鈴木普二男氏が継続的に調査研究に当たられ、発表されています。関心がある方はお読み下さい。

 伊勢宇橋の読み方は「いせうばし」と白井市のサイトにありました。

 一方、千葉県道179号船橋行徳線にある石碑は「伊勢宇橋」ではなく「橋楽橋」。自分が見た限りでは、次のように刻まれています。

常州信太郡江戸嵜瀬尾權六三男     
橋楽橋 九十六箇所之内 
江戸浅草花川戸町伊勢屋宇兵衛掛之
世話人
田尻村 名主 喜右衛門

橋楽橋の石碑の後ろに小さな石碑が
世話人
八幡町
○○屋○兵衛

 橋楽橋は「きょうらくばし」なのか、別の読み方をするのかはわからず、また最初の「橋」が俗字で最後の「橋」とは違う漢字が使われる点も謎。
漢字辞典より

 石碑にある「常州」は、常陸国(ひたちのくに)の別名で、信太郡(しだぐん)はその中の郡。「江戸嵜」は地区名で、「瀬尾權六」は父親、そして「三男」として生まれたとのこと。

 橋楽橋の石碑の後ろにある小さな石碑については、まず、置かれた時代を検証すると、田尻村は天保国絵図にありますが、八幡町はなく八幡村。
天保国絵図下総国より、一部改変

 というわけで、小さな石碑については、1869(明治2)年に葛飾県葛飾郡八幡町となった後のものだと推測できます。なぜこの石碑を置いたのかは不明です。

 わからない点のほうが多いものの、一ついえることは、江戸時代には伊勢屋宇兵衛のように、橋という公共財に私財を使った人がいたということ。

 明治には大畑忞氏も、学校という公共財のために労を惜しまなかったと考えられます。

 令和の今はどうなのかなと、ちょっと思ってしまいました。

■参考資料

『白井町の文化誌』(著/鈴木普二男)
天保(1830~1843)の頃、江戸浅草花川戸の伊勢屋宇平衛という
常陸国(現茨城県)出身の商人が、長年の病を草津湯治で全治したことに感謝して、
草津への道筋の沢に土橋や石橋を架け、湯治客の難儀を救いました。

古道を下ると伊勢宇橋碑に到着した。浅草商人伊勢屋宇兵衛が八十八ヶ所の橋掛けを立願して、八十五番目に建てられた。南足柄にも2箇所あり、1854年に建て替えられた。

瑞祥院の山門前にあるひょうたん池に架かる石橋は、勤勉努力して浅草の大商人となった伊勢屋宇兵衛が、私財を投じて造ったものである。瑞祥院から江戸日本橋に至るおよそ100カ所、また、草津街道にも88の石橋を架けた。これらは「伊勢宇橋」と呼ばれて人々に親しまれたが、今は壊れて無くなった。草津温泉には、「伊勢宇橋」の名が刻まれた石碑が残る。



浅草花川戸町 伊勢屋宇兵衛 醤油酢問屋

続膝栗毛による草津道.榛名道一古道の歴史地理−

茨城県稲敷市観光協会
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