市川駅南口アーケード街を巡る時間旅行 その2 雑多な雰囲気と“におい”にひきつけられるという習性
2004年頃まで存在した市川駅南口アーケード街は、市川駅北口のヤミ市の影響で生まれたと推測したのが「市川駅南口アーケード街を巡る時間旅行 はじまりはじまり」。
実はヤミ市から発展した商店街は数多く、代表的なのはアメ横商店街(台東区)です。
ヤミ市(闇市)は、第二次世界大戦中から戦後にかけて、配給品の不足などから、公的に認められていないルートで流通する商品を扱う市場でした。
物資を運ぶのに電車を利用したのならば、駅前の空き地に闇市が自然発生したのは必然。
公的な取引ではなく、売主が勝手に占拠していたため、露店がゴチャゴチャと並ぶ、猥雑・雑多な空間だったに違いありません(後になり、ヤミ市を仕切る組織などができたと推測できますが)。
行政側としては、正規の流通ルートを通らない物資が売買されることは大問題。そのため規制が強化されて、ヤミ市は消えていったのだそうです。
とはいえ、ヤミ市があった場所には公的な形で飲食店や日用雑貨店ができてきて、やがて商店街になっていきました。ヤミ市の名残として、猥雑・雑多な空間ができたということです。
1939年から1945年までが第二次世界大戦ですが、戦争が起こる前は国道14号(千葉街道)沿いに民家などの建物があるだけで、市川駅の南側は田畑だったようです。
1896~1939年頃の市川駅周辺 |
ところが、戦後すぐに、急速に宅地化・商業地化が進んだようです。戦争で東京から市川へと大勢の人が避難してきたことも一因でしょう。
1944~1954年頃の市川駅周辺 |
今昔マップ on the web
そして、ヤミ市がベースとあって、ゴチャゴチャしているだけに、改築しにくく、結果として、なんだか“におい”がするような古くからの建物が、商店街には残りやすいといえます。
この猥雑さと“におい”に、私たちは引き付けられる習性があるのかもしれません。
「市川駅前再開発で人がいなくなった」(サエキけんぞうさん)
整いすぎた空間では、私たちは居心地が悪くて、長居できないようにも思えます。
以前に、JR市川駅南口で開催されていた「市川駅前アイリンクタウンフリーマーケット(以下、アイリンクフリマ)」を取材した際、市川駅南口商店会から依頼があって始まったものだと知りました。
つまりは、商店会がアイリンクフリマを招待したということ。
古着や古道具、ハンドメイド作品などが並ぶフリーマーケットも、ヤミ市を思い起こさせるような空間です。その雑多さを、商店会の人たちは必要としてのかもしれません。
アイリンクフリマと同じ場所で開催された「イチカワチクチクカタカタワイワイ市」も、「この場所に、これほど人がいる光景を初めて見た!」と驚くほどのにぎわいでした。
イチカワチクチクカタカタワイワイ市 2019春 |
今は新型コロナ感染症対策で、「三密」は避けなければならない状況です。ただ、感染症が克服できた後には、ヤミ市的な猥雑な雰囲気と“におい”を今のJR市川駅南口でも醸し出せれば、市川駅南口アーケード街があった頃のにぎやかさが戻ってくるかもしれません。
■参考資料
『東京人』2008年3月号
『盛り場はヤミ市から生まれた』 編著/橋本健二、初田香成 青弓社
■シリーズ「市川駅南口アーケード街を巡る旅」
Leave a Comment