千葉県市川市と船橋市のジグザグ境界問題 ファイナル  ~Special thanks to 関東小字地図!

  クラナリで2019(令和元)年から4回にわたって紹介してきた「ジグザグ境界問題」。千葉県市川市と船橋市との境界が入り組み、市川市信篤市民体育館の右半分が市川市で左半分が船橋市という不思議な状態になっています。


2019(令和元)年頃に市川市が配布していた地図(赤いドットがジグザグ境界)


川市信篤市民体育館の右半分が市川市で左半分が船橋市(出典:いち案内




 ジグザグ境界の背景が、あの関東小字地図の作成者である臼井恭平さん(仮名)のインタビューで見えてきました。
 関東小字地図については、土地情報を検索する際に何度もお世話になっていて、眺めているだけでハッと気づくと1時間が過ぎる危険なサイトでもあります。

■関東小字地図

 ジグザグ境界問題が発生していたのは、入会地(いりあいち)だったためだと、臼井さんのインタビューでわかりました。以下、引用です。
それと、僕は境界線が入り組んでいる「入会地(いりあいち)」も好きです。かつては山林原野など、薪などを取集するための土地を周辺の村で共同管理する慣習がありました。

こうした入会地は境界が入り組んでいることが多く、見ていて面白いです。

今は行政によって土地が区画ごとにきちっと分けられていると思いますが、昔は土地の分け目が属人的な部分があったので、こういう境界の錯綜が生じていたんですね。


 早速、関東小字地図でジグザグ境界を確認しましょう。
 上の地図から、ジグザグ境界の近辺は、周辺と比べて青字の「町村界」、つまり町村の境界線が、異常に密集していることがわかります。

 地図を拡大してみましょう。
 赤字の「小字界」で、「入会」が多数あります。「原木入会」の土地は、原木村の人たちが共同で管理したことがわかります。

 それにしても、ごちゃついていますね。ほかの土地についてはおおらかというか、「小字界」に囲まれた区域が広いため、ジグザグ境界の土地を見ていると「ここはわしらのもんじゃ!」といった小競り合いが多かったのだろうという妄想がむくむくと湧いてきます。

 そんなジグザグ境界の周辺は明治期はどのような土地だったのでしょうか。歴史的農業環境閲覧システムで確認してみましょう。
出典:歴史的農業環境閲覧システム

 水田です!
 「薪などを取集するための土地」ではありませんでした。では、なんのための入会地だったのでしょうか。

 ここからはあくまで妄想ですが、水利、つまり農業用水を下流の地域まできちんと流せるように、ジグザグ境界の一帯が入会地だったのではないかと。
 低地で海に近いこの土地の川や水路は、塩水(海水)が遡上していたと推測できます(ちなみに江戸川については流山まで塩水が遡上していたとのこと)。海沿いの塩田はよいとして、水田は塩分が入ってくると稲が枯れて台無しになります。そのため、水路に堰を作っていたと考えられます。
 日照りが続いて水路の水が減ってきたときに、上流の村でせき止めると下流の村では水が来なくなってしまいます。こうしたことから、上流と下流の村で水を管理、はたまた、互いを監視するために、入会地になったのではないでしょうか。

 ジグザグ境界の一帯に限らず、近隣の村々では利害の対立が発生するものです。
 一例として学校が挙げられ、1879(明治12)年の教育令による小学校の統合では、校名で村々が対立したことが伝えられていました。隣の地区の名前がついた小学校に、自分の子どもを通わせたくないという親が多かったようです。

 おそらく、1955(昭和30)年に行徳町が市川市と合併するときには、「ウチは市川市じゃなく船橋市のほうがいい」と考えた行徳町民も少なくなかったのでしょう。また、1953(昭和28)年には、当時の行徳町・南行徳町・浦安町で合併する試案が、千葉県から出されていたとのこと。さらに、行徳町の中で船橋合併促進期成同盟も結成されて、町が混乱していたようです。
 今を生きる私たちには不思議なジグザグ境界ですが、行徳町が市川市と合併した当時の住民には当然の帰結だったのかもしれません。



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ジグザグ境界問題 信篤市民体育館の右半分が市川市で左半分が船橋市?編 続き

■主な参考資料
『精神衛生研究』第21号 国立精神衛生研究所

『校歌は生きている』 発行 市川市教育委員会
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