ジグザグ境界問題 信篤市民体育館の右半分が市川市で左半分が船橋市?編 さらに大畑忞(おおはたつとむ)教育基金

 X(旧Twitter)で「(仮称)信篤複合施設整備事業」のニュースが流れてきました。

 『クラナリ』にとって信篤といえば、岩沢青果店。2019年1月に、アポなしで伺いました(その節は、温かく対応していただき、感謝しております!)
岩沢青果店 〒272-0004 千葉県市川市原木2丁目2−1

 過去記事を見ると、住所が「千葉県市川市原木2丁目2−1」となっています。信篤という地名は存在しません。

 さらに、「(仮称)信篤複合施設整備事業サウンディング調査実施要領」の地図だと、信篤市民体育館の半分が市川市で半分が船橋市ということになります。

「(仮称)信篤複合施設整備事業サウンディング調査実施要領」より

 念のため、ほかの地図も確認しておきました(職員の人が間違うはずがないのですが、信じられず……)。
いち案内より



 市川市と船橋市の境界が入り組んでいることは、『クラナリ』でも過去に2回紹介しました。
 とはいえ、施設がこんなことになっていることには気づいていませんでした。この不思議な現象を探るために、「信篤」について調べました。

 信篤の由来は、信篤小学校にあります。なお、開校時は「信篤尋常小学」で、場所は現在の信篤図書館だったようです。

 中国の書物[論語]の中の「篤信好学・守死善道」(深く信じて、学問を好み、命がけで道をみがく)から引用したと言われています。

明治29年 7月 12日 高谷小が、原木・高谷両地区境に校舎を新築し、信篤尋常小学と改称。
初代校長「大畑 忞」(開校記念日とする)

※「忞」は「つとむ」

 1896(明治29)年の、信篤尋常小学の周辺を今昔マップで調べました。
今昔マップより

The 田んぼ

 本八幡駅が開業する前なので、現在の本八幡駅周辺もThe 田んぼで、千葉街道の沿道に住宅が密集しています。
 
 信篤尋常小学の周辺については、4つの集落がポツポツとあったようです。
 集落の1つは、古い時代は下総国栗原郷、そして江戸時代から兵庫新田と呼ばれていたとのこと。その後、小栗原となり、1889(明治22)年には、千葉県東葛飾郡葛飾村になりました。

 ほかの3つは、歴史的行政区域データセットβ版 ベクトルタイル地図 | Geoshapeリポジトリによると、1920年1月1日の時点では千葉県東葛飾郡行徳村です。すでに村の境界がジグザグになっていました。ただ、現在の信篤市民体育館は、千葉県東葛飾郡行徳村です。
オレンジ色の区域が行徳村
歴史的行政区域データセットβ版 ベクトルタイル地図 | Geoshapeリポジトリより

 それが1953(昭和28)年のデータでは、信篤市民体育館の半分が市川市という、現在の状況になっているようです。

歴史的行政区域データセットβ版 ベクトルタイル地図 | Geoshapeリポジトリより

 1955(昭和30)年に、行徳村が市川市に編入しています。このときに、行徳村の一部で「市川市への編入は嫌!」というかなんというか、そのようなことがあったのかもしれません。憶測ですよ、憶測。
広報いちかわ2024年1月1日より

 さらに、あくまでも推測ですが、行徳村の頃には信篤市⺠体育館の前身に当たる施設がすでにできていたのでしょう。市川市の資料では、現在の信篤市⺠体育館は1985(昭和60)年に建設されたものだそうで、この時点ですでに「半分が市川市で半分が船橋市」だったと考えられます。

 「信篤」と名づけた信篤尋常小学の初代校長の大畑忞氏については、篤志家だったに違いありません。田んぼばかりで寺子屋の延長のような学校があった頃に、教育施設を整えようと尽力したという印象があります。
 そして、住民も大畑忞氏を尊敬し、自分たちが住んでいる地域を「信篤」と呼ぶようになり、地名は原木だがアイデンティティが「信篤」なのではないかと勝手に思ったわけでありました。

 なお、大畑忞氏の孫に当たる大畑一枝氏は、「遺産を子どもたちの教育に使って欲しい」と遺言を残し、これが大畑忞教育基金の原資になっているとのこと。
市川市Facebookより


 市川市の奨学金制度については、以下のページで案内されています。


※おまけ
 今昔マップから、信篤小学校周辺の変遷(上から未来→過去)。左上のマーカーが信篤尋常小学があった場所で、右下のマーカーは現在の信篤小学校。





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