ジグザグ境界問題 信篤市民体育館の右半分が市川市で左半分が船橋市?編 続き
原木村も高谷村も、東京湾に向けて田畑が広がり、その合間を縫って塩を焼く煙りがたなびく、静かな農村地帯だった。
『校歌は生きている』より |
『校歌は生きている』(著/吉井道郎 市川市教育委員会)には、市川市の原木と高谷について、このように書かれています。明治には、今とはまったく違う、のどかな風景が広がっていたようです。
ただ、住民たちの心はというと、そうでもなかったのかもしれません。
1879(明治12)年に教育令が公布されました。教育令では、学区制を廃止し、町村を小学校の設置単位と位置付け、その行政事務を行うために町村に人民公選の学務委員を置くこととされました。そして市川市内でも、小学校の統合が行われました。しかし、当時存在した原木学校と高谷学校の統合が遅れたとのこと。
村の財政的なものもあるが、学校の位置をどこにするかで、村内で意見が分かれたことが原因といわれている。
それぞれの村の利害が一致しなかったため、なかなかまとまらなかった。そこで郡長や村会議員・学校長などがなかにたって斡旋した結果、学校の位置を「原木、高谷境地ヲ以テスル」と決定した。このとき明治二十八年九月だった。
このようにして高谷尋常小学校は、七月十二日盛大な開校式を行い、名称も信篤小学校と改めた。これは当時の校長だった大畑忞が『論語』のなかの「言忠信行。篤敬」からとって命名したもの。市川市域内にある三十八の小学校のうち、地域の名を冠していないのはここだけだが、対立していたその時代の住民を納得させるための英断でもあった。
おや?
信篤小学校のサイトとは違うことが『校歌は生きている』には書かれていました。
中国の書物[論語]の中の「篤信好学・守死善道」(深く信じて、学問を好み、命がけで道をみがく)から引用したと言われています。
それぞれの引用について、デジタル版「実験論語処世談」で調べました。
「言忠信行。篤敬」については次のように説明していました。
子張問行。子曰。言忠信。行篤敬。雖蛮貊之邦行矣。言不忠信。行不篤敬。雖州里行乎哉。立則見其参於前也。在輿則見其倚於衡也。夫然後行。子張書諸紳。【衛霊公第十五】
(子張、行はれんことを問ふ。子曰く、言忠信、行ひ篤敬なれば、蛮貊の邦と雖も行はれん。言忠信ならず、行ひ篤敬ならざれば、州里と雖も行はれんや。立つ則ち其前に参するを見る。輿に在りては則ち其の衡に倚るを見る。夫れ然る後に行はれんと。子張之れを紳に書す。)
孔子は之に対へて、其の言は忠信で、行が篤敬であれば、人も之れを信じて敬するやうになる。たとへ未開、無知の夷狄の如き野蛮の国にあつても行はれる。若しその言が忠信でなく行ひが篤敬でなかつたならば、郷党州里と雖も行はれない。故に忠信篤敬にして忘れないと、立つ時でも忠信篤敬が自分の前に参するやうに見える。
一方、「篤信好学・守死善道」は次のとおりです。
子曰。篤信好学。守死善道。危邦不入。乱邦不居。天下有道則見。無道則隠。邦有道。貧且賤焉。恥也。邦無道。富且貴焉。恥也。【泰伯第八】
(子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず、天下道有れば即ち見はれ、道無ければ即ち隠る。邦道有りて貧且つ賤なるは恥なり。邦道なくして富且つ貴きは恥なり。)
篤く信ずるとは、自分の事物に対する判断を確乎たるものとするといふことである。然もこの種の確信を有するが為には学を好むことが大切であつて、若し学を好むことなく、只軽率に何事も是であり善であるとして妄信するやうなことがあつては、決して正しいといふことは出来ぬ。そこで堅く信ずると共に、常に学を励んで、物事に対して是非善悪の正当な批判力を養ふことが大切である。
どちらの引用だったのかはさておき、地域の名称を小学校に使わなかったのは、住民、つまり親や祖父母同士の対立という背景があったようですね。
今昔マップより(明治36年測図、一部改変) |
しかし、同じ学び舎で過ごした子どもたちは、「信篤小学校の同窓生」として、やはり信篤という共通のアイデンティティがあったに違いありません。
『校歌は生きている』は1987(昭和62)年3月発行で、吉井道郎氏が執筆し、発行者は市川市教育委員会となっています。
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