行徳の暮らしと生業を破壊し、分断した「大正6年の大津波」
今でこそ台風が来ても冠水程度で済んでいますが、過去には市川市、なかでも行徳では甚大な被害を受けていました。1917(大正6)年10月1日の高潮(津波)は「大正6年の大津波」(「関東大水害」「大正大洪水」)と呼ばれ、行徳の暮らし、そして製塩という生業を破壊しました。
1893年の高谷での塩作りの様子(千葉県防災対策課資料より) |
なお、市川市は1934(昭和9)年11月3日に、市川町、八幡町、中山町、国分村が合併して誕生しました。行徳町は、1956(昭和31)年3月31日に市川市と合併しました。
歴史的行政区域データセットβ版 ベクトルタイル地図 | Geoshapeリポジトリより |
今でこそ東京のベッドタウンですが、大正の初めの行徳は製塩や農業が盛んで、行徳に住み、行徳で働くという暮らしを住民は送っていました。
1917年9月24日にフィリピン付近で発生した台風は、30日の夜半過ぎに静岡県浜松市に上陸し、東海・関東・東北地方を縦断しました。東京では気圧952ヘクトパスカル、最大風速43メートルを記録しています。
9月30日の夜は、中秋の満月で大潮。潮位が上昇しているタイミングで、台風が接近してきたのです。夜半近くから南東の風が強くなり、時おり豪雨が降りかかりました。真夜中になると風は強さを増し、10月1日の午前2時過ぎと3時過ぎの2回、暴風による高潮が発生したのでした。
市川市は現在のJR総武線の線路まで水が押し寄せ、市川尋常小学校(現在の市川小学校)も倒壊しました。となると、線路の南側(大洲、新田など)、さらに低地で海岸近くの地域は水に飲みこまれてしまっていたわけです。
市川町もかろうじて国鉄の線路で水をくいとめえるほどで、新築間もない市川尋常小学校の校舎は倒壊の憂きめにあい
人びとは生きた心地もないまま、家財を南側の雨戸に押しつけ、交代で必死に押さえながら風雨の鎮まるのを待っていた。こうしたなか、大津波が二度にわたって襲いかかってきた。津波の高さは海岸沿いで五メートルにも達し、家屋や田畑をのみこみながら、総武本線(いまのJR線)の線路際まで押しよせた。
学校の被害も大きく、行徳尋常高等小学校で校舎一棟が倒壊し、二階建て一棟が大破したほか 尋常高等小学校でも一棟が倒壊し、一棟が大破、市川尋常高等小学校も三棟が倒壊し、八幡・国分の両校でも校舎が傾斜してしまった。
稲のほとんどは水に潰って(原文ママ)倒れ、行徳町、南行徳村では五割の減収となり、水田に海水が流入して、その後の収穫にも大きな影響をあたえた。
漁業に対する被害も大きく、海苔篊は流され、江戸時代から盛んだった塩業も大きな損害をうけて、製塩は衰退の一途をたどった。この災害が物心両面にあたえた打撃はあまりにも大きく、行徳地区の農業や漁業は、その後長く停滞した。
「大正6年の大津波」での千葉県の死者・行方不明者は、313人に上ったという記録がありました。
千葉県防災対策課資料より |
家は壊れ、収入の半分と仕事場を失い、家族は傷つき、また亡くなり、被災した住民のショックは計り知れません。そして1916(大正5)年から1920(大正9)年にかけての江戸川放水路の開削で、行徳町は分断されました。こうして行徳の塩業は、1929(昭和4)年に終了しました。
かつての行徳町は、行徳橋など4つの橋でつながれ、塩田や田畑が広がっていたとは思えない光景に変わってしまったのでした。
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■参考資料
精神衛生研究
https://www.ncnp.go.jp/nimh/pdf/research21.pdf
https://www.pref.chiba.lg.jp/bousai/bousaishi/documents/dai2syou_3.pdf
https://adeac.jp/funabashi-digital-museum/text-list/d100080/ht001620
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