客を乗せた車両を人間が押す「東葛人車鉄道」は、人力車と同じ立ち位置だったんじゃないか問題 その1

 1909年(明治42年)から1918年(大正7年)までという、たった9年間しか存在しなかった東葛人車軌道株式会社。

 人車軌道(じんしゃきどう)とは、人が乗った客車や、作物・商品などを載せた貨車を人間が押す鉄道です。

人車軌道 じんしゃきどう 四人から一〇人程度の乗客を乗せた車体を、人力で押していく交通機関。速度もおそく輸送力も小さいが、これという交通機関がなかった時代には結構利用されており、千葉県下には四線ほどあった。
『千葉大百科事典』(編/千葉日報社)


 現代を生きる私たちの感覚だと、「鉄道=電車が走っている」が常識。しかし、レールを敷して、その上で車両(車輪がついた乗り物)を走らせる交通機関が「鉄道」で、人間が押そうが、馬が引こうが、鉄道の動力は何だってかまわないようです。

 東葛人車軌道株式会社については、レールの敷設などでかなり大工事を行ったはずですが、1910年(明治43年)の開通後から8年で営業を終了したとのこと。


 ウィキペディアには、以下のように説明されています。
当初は貨物輸送のみの運行で、サツマイモやムギのほか、肥料としての人馬牛糞などが輸送されていた[2]が、1911年(明治44年)1月からは旅客輸送も開始した。これに伴い、途中数ヶ所に待避線が新設されている[3]。

 しかし、ネット上で「東葛人車鐡道株式會社線路案内」を見て、疑問が生まれました。「物資を輸送するだけの目的で鉄道を敷くのは、投資を回収するのは厳しいから、観光客目当てだったのではないだろうか」と。
 なお、著作権の関係で、「東葛人車鐡道株式會社線路案内」のスケッチを掲載します。元図はhttps://twitter.com/1_kawa_4/status/1425341916283949060にアップされていました。


 江戸時代、江戸の人々は船で行徳河岸に移動した後、木下街道を通って成田山新勝寺に向かったそうです(「干ものあります。」「とんかつ予約承ります。」常夜灯公園のあずまや)。本行徳~八幡~鎌ケ谷~白井~大森~木下のルートは「木下道」と呼ばれていたとのこと。


 その後も成田山参詣は庶民の間で大人気で、その参拝客をターゲットに鉄道を作ったのは京成電鉄です。東京の「京」、成田の「成」で「京成」(京成電鉄国府台駅付近の松戸街道で歩道だけアップダウン問題)。


 京成電鉄と違うルートにする形で、東葛人車軌道株式会社も成田山参拝客をターゲットにした可能性は十分にあるでしょう。東葛人車軌道株式会社のほかにも、千葉県には3線ほど人車鉄道(人車軌道)があったようです。他社や船と連携すれば、江戸時代に使われたルートで、行徳から成田山までつなぐこともできます。


 「東葛人車鐡道株式會社線路案内」をパッと見たとき、観光案内と同じという印象を持ちませんでしたか?
 特筆すべきは、寺の紹介が多いこと。今でいうところの「パワースポット巡り」を紹介していたのではないでしょうか。
 もう一つは、群芳園。明治の末に総武線中山駅前に開園した、劇場・旅館・遊園地を備えた大型のレジャーランドで、船橋市本中山2丁目にあったそうです。

『絵はがき 写真に残された明治~大正~昭和』(船橋市郷土資料館 2005)p.17-18に「総武線中山駅前遊園地群芳園内」の絵はがき3枚が掲載され、p.89に「群芳園は国鉄総武線(現JR総武線)下総中山駅のすぐ北側(船橋市本中山2丁目の一画)にあった遊園地である。東葛飾郡葛飾村小栗原(船橋市本中山)の富豪斎藤甚之助が、失業救済のため小栗原の人々を雇って造成した施設で、園内には朱塗りの太鼓橋が架かる池や滝、舞台、料理屋、旅館などがあり、自転車競走も行われ、大変なにぎわいであったという。時期ははっきりしないが、明治44年(1911)ころに工事が行われ、大正中期を過ぎたころ閉園になったようである。」と記載あり。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000253739

 明治・大正の頃、市川は東京から行楽客が訪れるリゾート地でした。
 群芳園への行楽や桃林鑑賞、山菜取り、きのこ狩りが目当ての観光客、そして成田山参詣客を見越して、東葛人車鉄道が作られた可能性は十分考えられます。

 しかし、1918年(大正7年)に東葛人車鉄道は営業休止。
 1917年(大正6年)の台風被害で、廃止になったという情報もありました。

https://twitter.com/100nen_/status/1047486455319162881
 調べたところ「大正大洪水」「関東大水害」「大正6年の大津波」と呼ばれ、日本各地で洪水被害などをもたらした台風だったようです。
 このときに、行徳の線路が水没したとのこと。

 被害は甚大で、産業にも影響を及ぼしました。高潮で、江戸時代から続く行徳の塩田が被災しました。その後、塩作りは衰退していったのです。

東京府(当時)を中心に関東地方で特に大きな被害が発生し、神奈川県や千葉県でも多くの被災がありました。高潮は2度にわたって湾岸部を襲い、多くの人々の生活を壊していったのです。

 ほかにも関係すると思われるのは、江戸川放水路です。1915年(大正4年)に開削され、1919年(大正8年)に竣工しています。
 これによって、本行徳~八幡が分断されてしまいました。

 いずれにしても、東葛人車鉄道の営業休止には、行徳の事情が大きく関係しています。
 「木下街道の迅速輸送のため」でサツマイモなどを運ぶためならば、鎌ヶ谷から中山までの間だけで営業を続けるというのが筋ではないでしょうか。
 この点からも、最初の動機が何であれ、物資を運ぶためだけに東葛人車鉄道を営業していたとは思えないのです。
 「東葛人車鐡道株式會社線路案内」を見ると、本社は「千葉縣東葛郡中山村」ですが、「指定特約運送店」に都内の本所や深川の運送店・個人しかないのも、気になるところです。

 初めて「人車鉄道」と耳にしたときには、「人を乗せた車両を、人に押させるなんて……」とギョッとしてしまいました。なんだか、ひどい話のようにも思えました。
 しかし、よく考えると、人力車だって、人を乗せた車両を人に引かせているわけで、人車鉄道と人力車は同じ立ち位置といえそうです。

乗客を運ぶ、1900年頃の熱海の人車鉄道 ウィキディアより

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