京成電鉄国府台駅付近の松戸街道で歩道だけアップダウン問題
以前からずっと、京成電鉄国府台駅の周辺の道を歩いていると、違和感を覚えていました。おかしい……
その違和感の理由を確かめるために、現地に足を運んだところ、千葉県道1号市川松戸線(松戸街道)の車道の真横の歩道に、奇妙なアップダウンがあるのも一因かと。
車道にはまったく起伏がないのに、歩道を歩く人だけが階段を上り下りしなければならないのです。
写真左に、「歩道だけ下り階段」 |
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写真右に、「歩道だけ上り階段」 |
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松戸街道の北側にある「歩道だけ階段」の上から見た京成電鉄の様子 |
このアップダウンについて調べるために『京成電鉄85年の歩み』を読んだところ、京成電鉄と市川市との関係を再確認することにもなりました。実におもしろいぞ、『京成電鉄85年の歩み』!
そのようなわけで、話はあちこち飛びますが、歩道アップダウン問題についてまとめました。
京成電鉄は、その名のとおり、東京と成田を結ぶ鉄道です。
なぜ成田なのかというと、目的は成田山新勝寺へのお参り。江戸時代から成田参詣は大人気だったことは、行徳関連の記事"「干ものあります。」「とんかつ予約承ります。」常夜灯公園のあずまや"で書きました。
その参拝客をターゲットに鉄道を作ろうという話になったのは、1903(明治36)年のことでした。そして、1909(明治42)年に京成電気軌道株式会社が設立され、鉄道の敷設が進められました。責任者である専務取締役に就いたのが本多貞次郎(後に初代社長)。
○第1期 押上~市川、曲金(今の高砂)~柴又
○第2期 市川~船橋
○第3期 船橋~佐倉
○第4期 佐倉~成田
この工事のために、1911(明治44)年に市川火力発電所が作られたとのこと。当時の発想だと、鉄道という産業が先、市民生活が後にあるわけですね。そして京成電鉄が電灯業も行っていました。
最初の計画では、押上から、江戸川を挟んで市川まで敷設される予定でしたが、この「江戸川を越える」というのが大変でした。
橋が必要だからです。
橋ができるまでは、船(伝馬船)を使って、市川側の客は東京に渡っていたとのこと。
ようやく江戸川橋梁が完成したのは1914(大正3)年8月でした。
当時の写真を見ると、当然のことながら大型クレーンなどなく、基本的に人力。木でやぐらを組んで、足場を渡し、人の手でレールを運んでいる様子の写真が掲載されています。かなり危険な工事だったに違いありません。
『京成電鉄85年の歩み』より |
『京成電鉄85年の歩み』より |
そして同じ月に、市川鴻ノ台(今の国府台)駅が開業しました。
当時の市川鴻ノ台駅の写真には、ホーム上に人力車がある様子が写っています。今では浅草など観光地でしか見られませんが、大正の頃はメジャーな移動手段だったに違いありません。
『京成電鉄85年の歩み』より |
どうやら、京成電気軌道株式会社は儲かっていたようですね。
市川新田(今の市川真間)駅の近くで、東華園という庭園を経営していたそうです。『京成電鉄五十五年史』によれば、東華園は約3,900坪の敷地をもつ庭園で、果樹などが多数植えられ、東京から行楽客がやってきたとのこと。
1925(大正14)年には、江戸川の川幅を広げる工事が行われた関係で、江戸川橋梁も改修。その工事についても、相変わらず人力メインのようです。1927(昭和2)年に開通したときには複線化が完了しました。
ところで、京成電鉄は1907(明治42)年に設立された京成電気軌道株式会社による私鉄ですが、行政については1908(明治41)年に鉄道院という中央官庁が設置されていました(後の鉄道省で、鉄道省が引いた鉄道は「省線」)。鉄道省が引いた総武線・常磐線と、京成電鉄との間には熾烈な戦いが起こっていました。乗客争奪戦です。
別の話題になりますが、初詣は決して伝統行事ではなく、鉄道会社の乗客争奪戦から生まれた近年の一大イベントなのだそうです(知恵の木”初詣は、バレンタインデーのチョコと同様、商業的に成立した行事だった”)。
1932(昭和7)年に、鉄道省が総武線を山手線・中央線に接続させると、それに対抗して京成電鉄は運賃を値下げしたとのこと。今ではちょっと考えられません。
京成電気軌道株式会社はやっぱり儲かっていたようで、昭和10年代には自動車業や不動産業、畜産加工業、教育業など多角化していました。虫刺されや肩こりなどへの家庭常備薬「シミトール」や胃腸薬も販売していたとのこと。やり過ぎのような気がします……
第二次世界大戦後も、業績は悪くなかったようで、1952(昭和27)年に京成電鉄病院を市川真間に解説しています。
1962(昭和37)年には、京成百貨店を設立。翌年には「八幡で都心のお買い物」をキャッチフレーズに、地上4階、地下1階の京成八幡ビルに京成百貨店をオープン。京成八幡ビルは京成八幡駅に隣接していました。
しかし昭和40年代に入ると、業績が悪化してきました。乗客が減ったことなどが原因で、人件費が経営を圧迫したようです。『京成電鉄85年の歩み』では、昭和50~55年は「経営危機の時代」と位置付けられています。
そんな1980(昭和55)年6月4日に、江戸川橋梁の架け替えが完了したそうです。昭和なだけに、工事には大型のクレーンが登場していますね。
『京成の駅 今昔・昭和の面影』より |
今、私たちが見ている江戸川橋梁はおよそ40年前に作られたということになります。
古い線路は、以下の写真のコンクリート製土台の上を通っていたのではないかと推測します。
江戸川橋梁を架け替えるときに、今の国府台駅も作り直され、位置がずれたに違いありません。古い国府台駅や周辺の商店街は、歩道から上がったところにあったのでしょうね。
『京成電鉄85年の歩み』
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E9%A7%85#cite_note-%E2%80%9Dcanbooks%E2%80%9D-2
https://toyokeizai.net/articles/-/374714?page=4
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