昭和3年に市川市の鳥瞰図を描いた松井天山の“鳥”はどこを飛んでいたのだろうか問題
「千葉縣市川町鳥瞰」を1928年(昭和3年)に発表した松井天山(1869 - 1947年)。街道沿いの商店などが、驚くほど細かく描かれています。
「鳥瞰図から読み解く市川」(三井住友トラスト不動産)より抜粋 |
当時、インターネットもなく、一般の人々が航空写真や精緻な地図を目にする機会はなかったと考えられます。
どうやって松井天山は鳥瞰図を描いたのでしょうか。
鳥瞰図とは、その字のとおり、空を飛ぶ鳥が見たように、地上の景色を描いたものです。
鳥瞰図の多くは、近くを大きく、遠くを小さく描く遠近法が使われています。遠近法という技法として体系化される前にも、洋の東西を問わず、遠近感のある絵を描く試みはあったそうです。
私たちが「遠近法」と聞いて思い浮かべるのは「線遠近法(透視図法)」。消失点に収束するように描いていく方法で、消失点は1つのこともあれば(一点透視図法)、複数の場合もあります。
線遠近法のほかにも、空気遠近法、色彩遠近法、消失遠近法、曲線遠近法、上下遠近法、重畳遠近法、斜投象法など、遠近法にはたくさんの種類があるそうです。
線遠近法が体系化されたのは、ルネサンス初期のこと。イタリアの建築家フィリッポ・ブルネレスキ(1377 - 1446年)が、一点透視図法を完成させたとされています。
フィリッポ・ブルネレスキ Wikipediaより |
そして、ルネサンスの巨匠といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 - 1519年)。「鳥の飛翔に関する手稿」という研究ノートを残していたことから、鳥のように空を飛ぶことにも興味を強く抱いていたに違いありません。
「鳥の飛翔に関する手稿」 |
レオナルド・ダ・ヴィンチが「トスカーナ鳥瞰図」を描いたのは、鳥への憧れからでしょうか。
そのほかにも、ヤコポ・デ・バルバリ(1460年 - 1516年)が1500年に描いた「ヴェネツィア鳥瞰図」、アルトドルファー(1480‐ 1538年)が1529年に描いた「アレクサンドロス大王の戦い」が、ルネサンス期の鳥瞰図とされています。
中国では北宋(960 - 1127年)の時代に「三遠の法」という表現方法があったようです。三遠とは、高く仰ぎ見る「高遠」、向こう側を見通す「深遠」、水平の広がりを見る「平遠」です。
なお、日本に現存する最古の鳥瞰図は、奈良時代(710 - 784年)の「東大寺領荘園図」とのこと。
また、鎌倉時代(あるいは平安時代末期~江戸時代)に描かれたとされる「春日曼荼羅」、室町時代の狩野永徳(1543 - 1590年)の「洛中洛外図屏風」も、日本を代表する鳥瞰図として名前が挙がっていました。
春日鹿曼荼羅図 奈良国立博物館より |
洛中洛外図屏風 上杉本 右隻 Wikipediaより |
ただ、鳥瞰図が一つの日本文化として花開いたのは、江戸時代。浮世絵師たちが多くの鳥瞰図を描かれました。江戸時代前期に線遠近法が日本に入ってきて、「これは面白い!」と多くの絵師が取り入れていったのでしょう。
「千葉縣市川町鳥瞰」については、木を見ると、奥の真間山周辺のほうが手前よりも大きく描かれています。建物の大きさは、手前も奥もさほど変わりません。
おそらく、松井天山は浮世絵の鳥瞰図に影響を受けつつも、主観で鳥瞰図を描いたのでしょう。
ちなみに、大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師の吉田初三郎(1884 - 1955年)は、自由に鳥瞰図を描いていたようです。
なお、鳥瞰図には、遠近感を持たずに描く「平行投影法(アクソノメトリックス法)」という技法もあるようです。
とはいえ、北越製紙の建物が大きいので、この点から類推して松井天山の“鳥の目”はその近く、つまり北越製紙の江戸川対岸の上空にあったと思われます。いかがでしょうか。
北越製紙 |
グーグル航空写真より 左下の北越製紙の対岸に“鳥” |
ところで、私も市内を歩き回って鳥瞰図を描こうと試みたことがあります。しかし、あまりにも家やビルが多すぎて、視界が遮られ、位置関係を把握できません。それで、すぐに断念。
それにしても、松井天山が市川市の街並みを1枚の絵に収めることに成功したこと自体、すばらしいと感じます。完成に至るまでに、市内の道という道を歩き、店名などをメモして、地形のスケッチを続けたはずです。
「千葉縣市川町鳥瞰」を見ているとワクワクするのは、当時の様子がわかる資料としてだけでなく、その工程のすごさを感じてしまうからに違いありません。
■参考資料
星工房
http://hoshi-kohboh.art.coocan.jp/birdview/perspective.html
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