はかなくも、計画倒れに終わった「行船人車軌道」

 1910年(明治43年)に、敷設の出願があったのが「行船人車軌道」。名前のとおり、行徳と船橋を結ぶ人車鉄道(人車軌道)です。
 予定されていたルートは、当時の町名で行徳町本行徳2番地~下妙典~上妙典~田尻~原木~二俣~船橋町大字海神上組631番地だったとのこと。
 下図で、左側が明治後期の、右側が現在の地図です。青いピンが立っているところを結ぶように、行船人車軌道のルートが計画されていました。

今昔マップより



 この行船人車軌道は、計画倒れに終わります。

行船人車軌道は、前代未聞の裁判所による特許状の差し押さえを受けるという、不祥事の末の破綻だった
『人が汽車を押した頃』(著/佐藤信之 崙書房)


 この行船人車軌道のいわゆる言い出しっぺも、1909年(明治42年)から1918年(大正7年)までのたった9年間しか存在しなかった「東葛人車鉄道」と同じ「高橋健」という人物でした。
 高橋健の住所は、行船人車軌道の発起人となったときには市川町市川1614番地。しかし、東葛人車鉄道の発起人のときには八幡町在住だったそうです。

 行船人車軌道の発起人については、高橋健以外は行徳町の有力者でした。

 行船人車軌道が、計画倒れに終わるまでの経緯をまとめました。

1910年(明治43年)5月3日 行徳~船橋の人車軌道の出願
1910年(明治43年)10月27日付 千葉県知事が内閣総理大臣と内務大臣に意見書を提出
1911年(明治44年)3月27日 千葉県知事から特許状と命令書が下付
1912年(大正元年)10月1日付 千葉県が認可
1913年(大正2年)4月3日付 千葉県知事が「工事に着手」と内閣総理大臣と内務大臣に報告
1914年(大正3年)1月9日 「行船人車軌道の一部の役員が、城東電気軌道との合併契約を結び、株主から異議が申し立てられ、交渉中である」という陳情書が千葉県に提出
商法違反として告発され、裁判に
1914年(大正3年)3月2日付 行船人車軌道の社長が、「工事竣効期間伸長許可願」「特許権譲渡許可申請」を提出
「工事着手の形跡がない」「特許権譲渡が、株主総会の決議を経ていない疑いがある」ということで、却下
1914年(大正3年)4月10日付 特許は失効


 経緯の中で現れる「城東電気軌道」は都内の電鉄会社で、現在の江東区と江戸川区で路面電車の「城東電車」を運行していました。1942年(昭和17年)には、東京市の経営になり、「市電」と呼ばれるようになったとのこと。
 当時の写真を見ると、昭和の初め頃も東京は草むらが広がっていたことがわかります。
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1312305200/1312305200100030/ensenjyoto/

https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9204/3-11.pdfより

 行徳~船橋の人車軌道の会社が、どうして都内の電気軌道の会社と合併しようとしたのでしょうか。

 個人的には、お金のにおいがします。千葉県知事には工事に着手したと伝えておいて、実際は着手しておらず、ウソをついていた可能性が高いでしょう。
さらに、合併の話し合いをしていたということ。その期間があまりにも短く、最初から行船人車軌道を運行させるつもりがなかったとさえ思ってしまいます。

 そして気になるのは、発起人の高橋健。あくまでも推測ですが、山師だったのではないかと思うのです。

 1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月までの日露戦争の勝利で、日本は好景気でした。
 そんな時代に、町長や地主、資産家に「東葛人車鉄道を作りましょう」と持ち掛けたのが、高橋健。木下街道の劣悪な道路状況への対処だけでなく、「景気もいいし、人車鉄道で一儲けしよう」と思ったのだと推測できます。 
 このときの発起人も、高橋健以外は木下街道に関係する法典村・鎌ヶ谷村の有力者たちでした。
 しかし、1~2年で好景気が終わり、反動で不況。そのため、1907年(明治40年)には、別の資産家にも資金援助を要請しています。そのため、東葛人車鉄道の役員8人中5人が、法典村・鎌ヶ谷村とは無関係の人々になったそうです。当初は「地域のための事業」だったはずの東葛人車鉄道ですが、さまざまな思惑が絡んでくることになったはずです。

 行き当たりばったり。

 そんな印象です。

 その後は東葛人車鉄道の資金繰りに苦しんでいたにもかかわらず、行船人車軌道を作ろうとするのは、一般的な感覚としては無謀。ただ、山師であれば、これも儲け話になると踏んだのでしょう。
 東葛人車鉄道と行船人車軌道で、言い出し・口出しはしたものの、お金を出した形跡のない高橋健としては、短命あるいは計画倒れに終わろうとも痛くもかゆくもなかったはずです。

 『人が汽車を押した頃』の著者である佐藤信之さんは、高橋健を「人車軌道に特別な思い入れのある」人物と見なしているようですが、個人的には山師。そう思うのは、似たような人物と仕事をして、大変な目に遭ったという経験も関係しています。
 口はうまく、第一印象はよく、情熱的で積極的でやる気に満ちているように見えるのは最初だけ。いざ物事が進んでいくと無責任で、知識は乏しいのに口出しばかりするので現場で混乱を招き、そのくせ、自分は得しようとするのです。

 行船人車軌道について調べながら思いました。
 いつの時代にも山師はいて、人間のやっていることはあまり変わらないものだ、と。
 そして、こうした山師たちの中で実力と運を兼ね備えた人が、時代を切り開いたことも、また事実です。

■参考資料
『人が汽車を押した頃』(著/佐藤信之 崙書房)



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