海上生活を送る高度な技術を持っていた 古代本八幡の海洋民の謎 番外編 あんなに大きな古墳を設計図なしに作ったのだろうか問題

  よく考えてみると、古墳はすごいですよね(という、間抜けな書き出しになってしまうのですが……)。
大仙陵古墳(旧名「仁徳天皇陵」)


 どうやって、あれほど大きく、左右対称の〇と□を組み合わせて、鍵穴のような形をした土を盛ることに成功したのでしょうか?
 紙が普及していない時代に、どうやって設計図を描いたのでしょうか? 設計図なしで作れたのでしょうか?
 
 それで古墳に関する書籍を何冊か読んだのですが、答えは見つかりませんでした。
 「このような極めて大規模な立体物が築造された背景には、周到な設計と高度な測量技術や土木工学に基づく施工技術、そして高い労務管理能力があったものと考えられます」
 って、それはそうでしょうね……
 現在は、すでに存在する古墳をもとに設計図を起こしていますが、当時は目の前に大地が広がっているだけ。しかも、飛行機やドローンもなかったわけで、空から俯瞰することもできなかったのです。


 建設に使われた道具は、先端に鉄製の刃を付けたスキにクワ、そして土砂運搬のためのモッコとのこと。

 おや?

 だとすると、古墳時代から江戸川放水路が掘削された大正期まで、土木工事のスタイルは大きくは変わっていないということになります。つまり人力メイン。違いは、古墳時代には牛や馬が使われなかった点ぐらいでしょうか。

モッコ


 古墳に並べられた埴輪も、当時の服装などといった風俗がわかる、かなりハイレベルな出来。
 大阪府高槻市の今城塚古墳の埴輪祭祀場(はにわさいしば)からは、家、器台、大刀、盾、巫女、武人、力士、鳥など、136点以上の形象埴輪が発掘されたのだそうです。その中には高さ170cmの家形埴輪もあるとのこと。
 埴輪は素焼き土器なのですが、170cmのものをどうやって焼いたのでしょうね。キャンプファイヤーのように薪を組んだのでしょうか?




写真は高槻市ホームページより


 埴輪で表現されている表情や動きが生き生きとしていて、古墳も埴輪も、当時の人々は楽しんで作っていたのではないかというイメージをつい抱いてしまいます。

 ちなみに、私が子どもの頃は、「仁徳天皇陵」などと、埋葬されているであろう天皇の名前が古墳には付けられていました。
 それが6世紀以前の古墳については、実際は違うのではないか、さらには、そもそもそんな天皇はいなかったのではないかという見方が強まりって、所在地の名前が古墳には付けられているのだそうです。「仁徳天皇陵」については「大仙古墳」「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」と呼ばれているのだそうです。

 
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□参考資料
和紙の歴史、約1400年分をサクッとお伝えします

世界遺産 百舌鳥・古市古墳群

季刊大林 仁徳天皇陵の建設――巨大土木工事と国の誕生

全国子ども考古学教室

埴輪を見れば古墳時代の社会が見えてくる



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