「2勝98敗の男」が創業したTDK。そのテクニカルセンターはなぜ本八幡にあるのか問題

 ジャパネットホールディングスが長崎県長崎市で整備した長崎スタジアムシティ。
 眼鏡企業ジンズ(JINS)社長の田中仁氏が私財を投じて再生した群馬県前橋市の白井屋ホテル。
 このように、実業家が故郷や縁のある地域に施設などを建設する例は少なくありません。山崎製パン株式会社の山崎製パン総合クリエイションセンターは、その一例。

 では、本八幡(正式には市川市東大和田)にあるTDK株式会社のテクニカルセンターはどうなのかと思って、調べてみました。
「セレモ」のほうが目立つ、悪いアングルで撮影した典型的な写真……



 結論を先にいうと「歴代社長と市川市は、まったく関係がない」。しかし、「2勝98敗の男」と呼ばれた創業者がなかなかに魅力的だったため、まとめてみました。

 というわけで、今回は市川市とは全然関係のない内容です。


 まず、「2勝98敗の男」、またの呼び名が「ホラ憲」の齋藤憲三氏の出身は、秋田県にかほ市です。


1898年 にかほ市(旧仁賀保町)に生まれる。
1922年 早稲田大学商学部卒業。
1932年 東京アンゴラ兎毛株式会社創立。
1935年 東京電気化学工業株式会社創立。
1942年 衆議院議員。
1955年 経済企画庁政務次官。
1956年 科学技術庁政務次官。
1957年 衆議院科学技術振興対策特別委員長。
1970年 東京都で没。72歳。

 齋藤憲三氏がTDKを創業するまでの略歴は、次のとおりです。

地元秋田県の平沢小学校を卒業
→大阪府の桃山中学に入学・卒業
→東京都の早稲田大学商学部に入学・卒業
→秋田に戻り父親から借金して炭焼き事業→失敗
にいがた観光ナビより
→秋田の桐材の販売→失敗
→秋田米の販売→失敗
ぱくたそより
→養豚→失敗


→養鶏→失敗
→上京し、社団法人産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)に就職→退社
→東京アンゴラ兎毛株式会社を創立(アンゴラウサギの毛の販売)→鐘淵紡績(現・カネボウ株式会社)の社長である津田信吾氏と直接交渉・交渉成立→アンゴラウサギが寄生虫コクシジウムによる伝染病にかかり事業失敗


→アンゴラウサギに関係する技術指導を受けることがきっかけで、なぜかフェライト(磁性材料)と遭遇→フェライトの事業化を試みる→鐘淵紡績の社長が10万円(現在の2億円!)を援助→東京電気化学工業(後のTDK)創業
世界初のフェライトコアを使用したコイル(フェライト子ども科学館より)



 TDK創業の時点で、十分過ぎるほどの激動の人生です……
 ちなみに創業地は東京都の蒲田。千葉県市川市ではありません。

製品化を目指して東京蒲田に工場を建設。フェライトは、フェライトコアという部品として製品化し、ラジオや無線通信機などに応用され、時流に乗って事業は著しく進展した。日中戦争最中の昭和 15(1940)年、実家の蔵を改造して平沢工場を設置。


 
 齋藤憲三氏は、実業家から政治家に転身しますが、だからといって起業家精神は衰えなかったようです。

政治家としての斎藤は、平沢町長を経て、昭和 17(1942)年、衆議院議員に当選して以来通算 5 回当選。ここの間憲三は、ハタハタのパイプ式漁法や横手盆地の石油開発などに熱中して、「ホラ憲」と揶揄されたが、生涯にわたってスケールの大きい陽気な正義漢であり続けた。


 「2勝98敗」の2勝は、TDKと、衆議院議員時代の科学技術庁創設の2つとのこと。
 ちなみに、「ハタハタのパイプ式漁法」は、本当かどうかは不明ですが、秋田のおいしい魚ハタハタを、海水ごとパイプで吸い込むという、なんだか体育会系の漁法だとか。本当かどうかは不明です(2回目)。
ハタハタ(花ざかりの森より)



 TDKの歴代社長がどこの出身なのかをWikipediaで調べたところ、以下のとおりでした。先に結論を述べると、市川市どころか、千葉県と全然かすっていません

任期:社長名 出身地

1935(昭和10)年12月7日 - 1947(昭和22)年12月30日 : 齋藤憲三 秋田県にかほ市出身、早稲田大学商学部卒業

1947(昭和22)年12月30日 - 1969(昭和44)年1月30日 : 山崎貞一 静岡県榛原郡相良町福岡出身、東京工業大学(現・東京科学大学)電気化学科卒業
 1956(昭和31)年に市川工場を新設し、目黒研究所及び蒲田工場を閉鎖しその全設備を移転


 1965(昭和40)年測図の地図を見たところ、テクニカルセンターがある場所の当時の地名は「本行徳八幡下」。そして、工場はおろか、道路すらない状態です。北側にある工場マークの場所が、市川工場だったのでしょうか? あるいは、見た目が工場っぽくなかったため、見落とされたのでしょうか?

1965年測図の地図(今昔マップより)

→「市川工場」は、現在地ではなく、市川駅の南側にあったという情報をいただきました。早速、1965(昭和40)年測図の地図を確認したのですが、工場マークがありませんでした。TDKはどこへ行った? 2025年5月3日

1965年測図の市川駅周辺の地図(今昔マップより)

 1976(昭和51)年測図の地図では、現在の場所に工場マークがついています。地名も「東大和田二丁目」となりました。
1976年測図の地図(今昔マップより)


1969(昭和44)年1月30日 - 1983(昭和58)年2月25日 : 素野福次郎 兵庫県神戸市出身、神戸高等工業学校(現・神戸大学工学部)中退(鐘淵紡績から転職)

1983(昭和58)年2月25日 - 1987(昭和62)年2月27日 : 大歳寛 兵庫県洲本市出身、早稲田大学専門部商学科卒業
 1983(昭和58)年に社名をTDK株式会社に

1987(昭和62)年2月27日 - 1998(平成10)年6月26日 : 佐藤博 東京都出身、日本大学旧工学部卒業
 1990(平成2)年に千葉県市川市でテクニカルセンターが完成

1998(平成10)年6月26日 - 2006(平成18)年6月29日 : 澤部肇 東京都出身、早稲田大学政治経済学部卒業

2006(平成18)年6月29日 - 2016(平成28)年6月29日 : 上釜健宏 鹿児島県加世田市(現・南さつま市)出身、長崎大学工学部電気工学科卒業

2016(平成28)年6月29日 - 2022(令和4)年6月29日 : 石黒成直 東京都出身、北海道大学理学部化学科中退(TDKに入社)

2022(令和4)年6月29日 - 現在 : 齋藤昇 三重県出身、同志社大学法学部卒業

 あくまでも1965年測図の地図の印象ですが、TDKの市川工場が本八幡にできた頃、東京近郊で便利なこの地に、数多くの工場が移設・新設されたのではないでしょうか。
 その後、地価の高騰その他で他社が撤退する中、TDKの市川工場は残り、バブル期後期だった1990年にテクニカルセンターへと変貌したのだと推測できます。
 クラナリの記憶が確かならば、JR市川駅の南側にもTDKの駐車場があったような、なかったような……
 なんなら、東京・日本橋の本社も本八幡へと引っ越してきてほしかったような気が、市川市民としてはしなくもありません。


 最後に、超文系人間にもわかりやすく科学技術などが説明されているTDKのサイトを紹介します(ピエゾ効果を調べたときにお世話になりました)。



※テクニカルセンターの写真が一枚もなかったので、今度撮影に行きます。
→撮影しに行った日は、市川文化会館でのライブなどでいろいろとあり、冒頭のような悪いアングルの写真となりました。申し訳ありません。 2025年5月3日

■参考資料
有価証券報告書

TDK株式会社と地域貢献マーケティング-齋藤憲三と故郷との関わりを中心に-


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