「冨貴島」が気になります その1

 市川市立冨貴島小学校の校歌に、「松の冨貴島」「緑をうつす 境川 花を浮かべて 希望の海へ」とあるのですが、さて冨貴島。
 現在の地名は「八幡6丁目」。どうして冨貴島? しかも「島」?

 冨貴島という地名について調べてみました。

■内陸でも「島」という地名がある理由
 実は、「島」がつく地名は珍しくないそうです。
 「シマ」は川沿いの耕地や一定の領域を意味するとのこと。それが転じて、一つの集落を「島」と呼ぶようになったようです。

 そういえば、ヤクザ映画でも「うちのシマで、なにやってんだ」といったセリフを聞いた記憶がありました。

■「冨貴」とついていたのは市川市内で3カ所
 まず、市川学園の前を流れていた川が「冨貴川」という名前だったそうです。大柏川(当時の名前は「内匠川」)から分岐。「中山団地のところから斜めに、川筋からみると直線的に市川学園に通ずる道の東側の下水路が昔の冨貴川」と『いちかわ水土記』には書かれています(▼記事の末尾で補足します)

 次に、曽谷の台地の下で春木川の東側の地名が「冨貴塚」とのこと。

 そして、「冨貴島」と呼ばれた地区。
 実は冨貴島小学校があったのは「浅間前」という地区だったようです。明治から「浅間前」という名前だったのですが、隣の「冨貴島」のほうが字面がよいから勝手に地名を変えたのだとか。
 確かに、「冨」と「貴」の組み合わせは、なんだかめでたい感じがしますね。

※大柏川(内匠川)は江戸時代の寛永年間(1624~1644年)に開削されたそうです。鎌ヶ谷市道野辺から八幡、行徳を通って、浦安に至る農業水路です。

■校歌の「境川」は今の真間川
 かつての真間川は、江戸川にだけつながっていました。大正初期に、東京湾につなげる放水路が掘削され、この放水路が境川と呼ばれていたそうです。
 前述の冨貴川(内匠川)と、境川とは立体交差していたようです。明治から大正にかけての耕地整理によって、冨貴川は樋(とい)で境川の上を流れるようになったとのこと(▼記事の末尾で補足します)
2つの川が立体交差(『内匠堀の昔と今』より)

 それから戦後の昭和30年代、著しく都市化が進んだ結果として冨貴川はドブ川になってしまい、埋め立てられてしまったそうです。
市立市川考古博物館の展示

校庭に川が!(『内匠堀の昔と今』より)


 こうして冨貴川は、浅間橋のところで境川に合流するようになったみたいですね。
八方橋から見た浅間橋

浅間橋のたもとから見ると、3方向から水が入り込んできている印象が。前方が真間川、右斜めが大柏川
冨貴島橋から見た浅間橋(大部分が桜で隠れている……)
冨貴島橋のたもとにあった看板

 今のように下水道が整備され、川がきれいになってきたのは最近のことのようですね。

 市川市は昭和36年に下水道事業認可を取得し、下水道の整備を進めてきたようです。
 それ以前は工業排水や生活排水が、川へ流れ込んでいたわけです。
 ちなみに、稲越から須和田付近までを流れる春木川は、「全国一汚れた川」と呼ばれていたそうです。環境省の発表する全国ワースト河川のランキングでは、平成16年度は1位で、平成17年度は2位。さぞかし臭かったのでしょうね。

 「川」という字を目にすると、雨が降って山から水が流れてきて、自然に川ができたとイメージしがちです。
 しかし市川では、人工的に作られたり、流れが変えられたり、名前も変えられたりした川が多いという印象です。

 現在では、冨貴川という川も冨貴島という地区もなく、小学校や橋などに名前を残すだけとなりました。

冨貴島から見た真間川

〇参考資料

目からウロコの地名由来
https://baba72885.exblog.jp/6943029/

『いちかわ水土記』 鈴木恒男 崙書房

広報いちかわ1239号
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/media/koho/270616.htm

▽補足
「葛南雑記 行徳・南行徳・浦安」の「内匠堀」で、冨貴川がどのように流れていたのか、冨貴川(内匠川)と境川がどこで立体交差したのかが図示されていました。
http://katsunansanpo.fuma-kotaro.com/page003.html



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