市川市中国分4丁目近辺、山が一つなくなっちゃった問題 その2 ~それは“もともとなかった”のではないか
「中国分歴史探訪」に記載がある「三角山」。「当時を知る人々の心の中に聳える幻の山である」として、昭和30年代に消えた山として紹介されています。
この三角山は、もともと、ここにはなかった山という可能性が考えられます。
ところで、「ボタ山」は、石炭産業が栄えた場所で見ることができます。石炭を採掘する際に一緒に取れた石を捨てていくうちに、出来上がった山です。
多くのボタ山はきれいな三角形をしています |
Wikipediaによれば、1872年(明治5年)に鉱山解放令が公布され、明治政府や民間人により炭鉱開発が急速に進められたとのこと。その後、エネルギー源の主体が石炭から石油に移行したことから、1960年代には大手企業の炭鉱が閉山したのだそうです。
ですから、ボタ山は明治から昭和にかけて、人間の手で作られた山なのです。
ボタ山はもろくて崩れているものもありますが、その多くはきれいな三角形をしています。
ここで、中国分の三角山に話を戻しましょう。
この「三角山」という呼び名から、取ってつけたような印象はぬぐえません。
また、市川市は下総台地の端に当たり、ここに三角形の山があったというのが不自然。
市川自然博物館だより81号より また、三角山があったと思われる場所に足を運んで、「中国分歴史探訪」に記載されているような40数メートルの山が存在していたのか、疑問を抱いたのでした。 |
じゅん菜池緑地の横 |
小さな林が広がっています |
この射撃場は、囚人たちの強制労働で作られたという話があります。
陸軍の射撃場は日本各地に建設されているのですが、当然のことながら、どれも形は似ています。広大な長方形の土地の周囲に土を盛って、弾を受け止める土手があります。
明保地区明るいまちづくり協議会 サイトより |
中国分の射撃場については、流れ弾が敷地外に出ないように、もともと下総台地の端で小高くなっていた場所に、工事によってさらに土が詰まれて、三角形の山のようになっていたと推測できます。そうです、まるでボタ山のように……
それで、近所の子どもたちから「三角山」と呼ばれたのではないでしょうか。
三角山の標高についても40数メートルというのは、昭和の初め頃の話なので正確には計測されておらず、あくまでも「誰かがそう言っていただけ」という可能性もあります。
○参考資料
市川市中国分自治会の「中国分歴史探訪」
http://www.nakakokubun-ichikawa.org/gaiyou/rekishi_tanpou.html
レファレンス協同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000222144
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