道はどうやってできるのだろうか問題 ~大町梨街道と大町の成り立ち その1
千葉県松戸市の松戸隧道交差点から千葉県成田市の不動橋交差点までを結ぶ、一般国道464号線。市川市内では「大街梨街道」とも呼ばれています。
そして国道464号線のバイパスである北千葉道路は、「首都圏と成田国際空港を結ぶ最短ルートを形成する重要な道路の一部区間」と関東地方整備局に位置づけられているようです。
そんな国道464号線は、最初から松戸隧道交差点~不動橋交差点だったわけではないようです。
歴史をさかのぼると、現在の大町梨街道は、江戸時代初期の新田開発の際に建設されたのだと推測できます。道に沿って少しずつ集落ができ、道が伸びていったのでしょう。
明治初期に作成された迅速測図(図に明治13年という記載あり)には、現在の大町梨街道は「透(?)東(?)嵜(?)新田道」「至八自木下」と書かれています(よく読めないのがくやしい……)。
現在の国道464号線についても、松戸隧道交差点から市川の大町までは1本の道でつながっていなかったのだと、迅速測図からわかります。
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| 迅速測図 |
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| 右がAIで鮮明にしたもの |
江戸時代の初めに、徳川家康が五街道・脇往還(江戸時代の五街道以外の主要な街道)を整備させました。
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| 五街道と主な脇往還 国土交通省 |
それ以外の道は、アリの巣穴作りのように、代官や民間人が必要に応じて作ったのでしょう。江戸の周辺100カ所に橋をかけていった、江戸の醤油酢問屋の伊勢屋宇兵衛がいたことから、ライフライン整備は必ずしも幕府や藩の仕事ではなかったと考えられます。
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| アリの巣穴 |
それに、車がなかった頃は、移動は歩くか、駕籠(かご)に乗るか、馬に乗るかで、現在のような大渋滞はなかなか生じなかったはずです。そのため、主要な五街道・脇往還さえ整備できていればよかったのでしょう。
今回は、『大町をひらいた人びと』(著/大町共有地管理委員会)をもとに、大町梨街道をはじめとした道と大町の成り立ちについてまとめました。
大町だけに関係するところは、ナシ色(茶色)にしています。
大町梨街道と大町の年表
1601(慶長6)年 徳川家康が街道を順次整備
1596~1615年(慶長年間) 軍馬の確保・育成のため、小金牧・佐倉牧を幕府が設置
1661~1681年(寛文・延宝年間) 下総台地で新田開発が盛ん
1670(寛文10)年 大町新田の開発
大町新田は、天領(将軍家直轄の所領)で代官支配地。
1867(慶応3)年 大町村が村有地(大町共有地)を持つことが許可
細川弥太郎ほか31名が、代官所に神社その他の村有地の払い下げ請願書を提出しました。
大町共有地は、現在の日枝神社、不動尊、白木木材置場、詰所駐車場、駐車場、診療所、庚申塔、牛馬墓地、千駄刈墓地、中島墓地。
1889(明治22)年 大野村・柏井村・大町新田・奉免村が合併し大柏村発足
明治23年下総国東葛飾郡大柏村普通物産表には米やもち米、兵穂米、大麦、小麦、粟、稗、大豆、蕎麦、甘藷、小豆が記載。同年の大柏村特有物産表には、ナシ、切り干し大根が記載。
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| 1903(明治36)年作図の地図(今昔マップより) |
1943(昭和18)年 市川市と大柏村との合併申請を内務省に提出するも却下
1946(昭和21)年 市川市と大柏村との合併申請書を県に提出するも、大柏村の一部が反対し、実現せず
1949(昭和24)年 大柏村が市川市に合併
1950(昭和25)年 日枝神社の近くにナシ集荷場が開設
1961(昭和36)年 大町で市営住宅の建設が進む
1962(昭和37)年 大町にナシ共同選果場が開設
1964(昭和39)年 「市川市大町共有土地の所有権保存の登記を為す行為」訴訟で市川市と和解成立
市川市が大町共有地を市の所有とするという通知に対して、大町共有地管理委員会が訴訟を起こしたのですが、納税領収証書があったことから解決に向かい、和解。
1966(昭和41)年 外環(東京外かく環状道路)に関する都市計画決定
1969(昭和44)年 国道464号線の市川市から印旛村(現在の印西市)までの約32キロメートルが都市計画決定 ※鎌ヶ谷市サイト
※Wikipediaでは1967(昭和42)年
1973(昭和48)年 大町自然公園が開設
| 動物園内マップより |
昭和50年代 ナシ栽培農家が、直接販売を開始
1978(昭和53)年 JR武蔵野線市川大野駅が開業
1980(昭和55)年 市川斎場が大町に移転(元はどこにあったのかは不明)
1987(昭和62)年 動植物園が開設
| 動植物園入り口(市川市 動物園サイトより) |
1989(平成元)年 自然博物館・万葉植物園が開設
| 自然博物館(千葉県サイトより) |
| 万葉植物園(市川市サイトより) |
1991(平成3)年 北総開発鉄道大町駅が開業
1993(平成5)年 鑑賞植物園開園、松戸市から成田市までの47キロメートルが国道(国道464号)に指定
1993(平成6)年 国道464号が地域高規格道路の候補路線に指定
2003(平成16)年 市川市内を走る国道464号線が公募で「大町梨街道」と決定
2015(平成27)年 国土交通省が市川から鎌ケ谷間の直轄調査実施を公表
2017(平成29)年 国道464号北千葉道路(市川から船橋市)に係る環境アセスメント手続きに着手
2018(平成30)年 東京外環自動車道(三郷南IC~高谷JCT)開通
2020(令和2)年 一般国道464号北千葉道路(市川市から船橋市)が都市計画変更が決定、環境影響評価手続きが終了、北千葉道路の市川市から船橋市間に係る都市計画変更に伴う「都市計画変更図書」の縦覧の実施
2021(令和3)年 市川市堀之内から市川市大町までの一般部3.5キロメートル及び専用部1.9キロメートルの区間が北千葉道路(市川・松戸)として国の直轄権限代行事業により事業着手、測量作業の実施
2024(令和6)年 市川市堀之内から市川市大町までの区間について、都市計画事業承認・認可の告示
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| 1.北千葉道路の概要についてより |
■主な参考資料
大町梨街道
北千葉道路建設促進期成同盟整備状況
市川都市計画道路の変更(千葉県知事決定)
山川 日本史小辞典 改訂新版
代官見立新田だいかんみたてしんでん江戸時代,幕府代官が新田開発可能地をみいだし,その主導で開発された新田。積極的に奨励されたのは享保期で,1722年(享保7)7月~23年11月に,新田を開発した代官に対し新田年貢の10分の1を1代かぎり支給することが決定された。下総小金・佐倉両新田を開発した代官小宮山杢之進昌世(まさよ)に支給されたのがその一例。しかし,代官が見立てをしても,実際の開発は村請で行われることが多かったため,代官がどの程度新田開発に関与したら10分の1を支給するかの判定は難しかった。
平野の拡張,新田開発
新田開発は、近世における大規模な地域開発である。多くは耕地とともに集落が形成され、これらがセットになって列村や散村のような独特の景観がつくり出された。新田開発が進められたのは、幕藩体制の制度的整備が確立する明暦~寛文期(1660年ごろ)、幕府財政の再建を図り改革の行われた享保期(1720年ごろ)、深刻化する幕藩体制の危機に直面し改革の行われた幕末に近い天保~安政期(1840年ごろ)の3期をピークとしている。いずれも、体制の確立や強化を背景にした開発奨励や農業振興によっている。このころまでにすでに開かれていたのは、比較的水を制御しやすい場所、すなわち山麓の小さな谷間を堰き止めた溜池や小河川に掛けた井堰から水を引きやすく、しかも洪水などの被害の少ない山麓の平坦地や中小河川中流域の扇状地・河岸段丘などが多かった。
江戸初期、小金牧には7牧ありました。庄内牧、高田台牧、上野牧、中野牧、一本椚牧、下野牧、印西牧です。庄内牧は、現在の野田市内にありました。江戸時代初期までは牧として機能していましたが、他の牧のような高低差が少ない平坦地で開発が容易であるために、新田開発が行われました。そのため、野田の牧は早い段階で幕府牧としての機能を終えました。江戸時代の庄内牧は北部の上野と南部の下野に分かれていましたが、これは江戸初期の新田開発(花井新田など、いわゆる七ヶ新田の開発)によって、中央部が牧から村になり、牧が野田から消滅しました。 この地域の新田開発は、寛文・延宝期、享保期と寛延期の3度、行われています。寛文・延宝という時期は、江戸川低湿地帯の開発が一段落し、深井新田、平方新田、岩名新田などが誕生して、下総台地内陸部の牧周辺が開発の対象として進められた時期です。小金牧の開発は、寛文・延宝期に盛んに行われました。享保期の新田開発は、幕府の年貢増徴策によって行われました
関東の無料「ハイスペック一般道」5選 高速並み大幹線、交通量日本一も
北千葉道路は「外環道と成田空港を最短で結ぶ」43kmの道路として計画され、2019年9月現在、鎌ケ谷市から成田市のあいだ29.5km区間が開通しています。北総鉄道北総線、京成成田空港線(成田スカイアクセス線)にほぼ沿っており、印西市内の約9km区間は真ん中に鉄道、その左右に道路の本線、さらにその外側の一段高くなった部分が側道という構造になっています。信号もなく見通しもよいことから、この区間の本線は2017年に最高速度が60km/hから70km/hに引き上げられました。






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