なんともめでたい新しい地名と、古くからの地名。そして「市川」と一口にくくれない理由
宝、幸、福永、末広。
すべて市川市の地名(町名)です。
このような、なんともめでたい地名がつけられたのは、もともとは二百数十年前に加藤作兵衛という人が江戸幕府から新田開発を請け負い、埋め立てた土地である「作兵衛新田」なのだそうです。
また、「儀兵衛新田」という地名も1971年(昭和46年)頃まであったとのこと。儀兵衛さんが1743年(完保3年)に新田を開発したようです。
土地の区画整理事業の後、作兵衛新田の一部と儀兵衛新田のすべてが消えて、1973年(昭和48年)に福永、翌年に末広、1977年(昭和52年)に宝・幸といった地名が誕生したそうです。
なんともめでたい地名は、比較的新しいもののようです。
ところで、今回『クラナリ』では、開通したばかりの妙典橋を渡り、市川水路から当代島水門(浦安市との市境)に行き、行徳橋を渡ってJR市川駅南側に戻ってきました。
ゴールであるJR市川駅南側やその周辺の「新田」は、江戸時代から「新田村」だったようです。古くから変わらない地名です。
【撮影レポート】市川街歩きの会 第4回市川街歩き(市川・真間編) で紹介した地蔵山のお地蔵さまは、1655年(明暦元年)に亡くなった田中正成という人の墓碑なんだとか。新田という地名どおり、この人が新たに作った田んぼとのこと。
1902年(明治35年)から1965年(昭和40年)頃まで新田はイチゴの産地で、「市川の朝摘み苺」として有名だったそうです。
イチゴ!? 今では、どこにも見当たりません。市川の梨は知っていたのですが、イチゴとは。あまりにも意外でした。
また国府台に至っては、日本武尊(やまとたけるのみこと)の神話が関係し、1950年も前にこの名(当時は「鴻之台(こうのだい)」)がついたようです。真偽はさておき。
國府神社の由来が看板に書かれていました。
市川市内は全体的に宅地化が進んで、田んぼもイチゴ畑も消えて、画一化しています。
その一方で、松戸市との市境と、浦安市との市境、JR市川駅周辺などとでは、土地に備わる「エナジー」の違いは、今もなお残されているという印象を持ちました(「雰囲気」という言葉だけでは表現し切れない「何か」を「エナジー」としています)。
土地の高低差だけでなく、農業と塩業という過去の産業の違いも関係しているのかもしれません。
このウェブマガジンのテーマは「市川で暮らしと生業をつくる」ですが、ひと口に「市川」とくくるのも現状に合っていないのだろうと、足を運んで実感しました。ですから、市の東西南北、それぞれの地域で生活している皆さんに取材しながら、暮らしと生業について一緒に考えていきたいと思っています。
〇参考資料
市川市サイト内「市川の地名」
http://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1069.html
すべて市川市の地名(町名)です。
幸公民館前の桜並木では、お花見するグループがたくさん。めでたい! |
このような、なんともめでたい地名がつけられたのは、もともとは二百数十年前に加藤作兵衛という人が江戸幕府から新田開発を請け負い、埋め立てた土地である「作兵衛新田」なのだそうです。
また、「儀兵衛新田」という地名も1971年(昭和46年)頃まであったとのこと。儀兵衛さんが1743年(完保3年)に新田を開発したようです。
土地の区画整理事業の後、作兵衛新田の一部と儀兵衛新田のすべてが消えて、1973年(昭和48年)に福永、翌年に末広、1977年(昭和52年)に宝・幸といった地名が誕生したそうです。
なんともめでたい地名は、比較的新しいもののようです。
ところで、今回『クラナリ』では、開通したばかりの妙典橋を渡り、市川水路から当代島水門(浦安市との市境)に行き、行徳橋を渡ってJR市川駅南側に戻ってきました。
当代島水門と当代島3丁目 |
ゴールであるJR市川駅南側やその周辺の「新田」は、江戸時代から「新田村」だったようです。古くから変わらない地名です。
【撮影レポート】市川街歩きの会 第4回市川街歩き(市川・真間編) で紹介した地蔵山のお地蔵さまは、1655年(明暦元年)に亡くなった田中正成という人の墓碑なんだとか。新田という地名どおり、この人が新たに作った田んぼとのこと。
![]() |
かなり大きなお地蔵さまは、田中正成の功績を表しているのでしょうか |
1902年(明治35年)から1965年(昭和40年)頃まで新田はイチゴの産地で、「市川の朝摘み苺」として有名だったそうです。
イチゴ!? 今では、どこにも見当たりません。市川の梨は知っていたのですが、イチゴとは。あまりにも意外でした。
また国府台に至っては、日本武尊(やまとたけるのみこと)の神話が関係し、1950年も前にこの名(当時は「鴻之台(こうのだい)」)がついたようです。真偽はさておき。
國府神社の由来が看板に書かれていました。
市川市内は全体的に宅地化が進んで、田んぼもイチゴ畑も消えて、画一化しています。
その一方で、松戸市との市境と、浦安市との市境、JR市川駅周辺などとでは、土地に備わる「エナジー」の違いは、今もなお残されているという印象を持ちました(「雰囲気」という言葉だけでは表現し切れない「何か」を「エナジー」としています)。
土地の高低差だけでなく、農業と塩業という過去の産業の違いも関係しているのかもしれません。
このウェブマガジンのテーマは「市川で暮らしと生業をつくる」ですが、ひと口に「市川」とくくるのも現状に合っていないのだろうと、足を運んで実感しました。ですから、市の東西南北、それぞれの地域で生活している皆さんに取材しながら、暮らしと生業について一緒に考えていきたいと思っています。
〇参考資料
市川市サイト内「市川の地名」
http://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1069.html
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