【撮影レポート】市川街歩きの会 第4回市川街歩き(市川・真間編) 

 「市川街歩きの会」というネット(SNS)コミュニティが、大門通りをはじめ、JR市川駅の北側の街歩きを2019年3月24日に行うことを知り、参加させてもらいました(イベント主催者の原田 良博さん、ガイドをしてくださった岡田 公治さんをはじめ皆様、ありがとうございます!)。
この写真は2017年に撮影したものです

 結果、地形の変化をはじめ、興味深い話をたくさん聞くことができました。以下は、ガイドの岡田さんと参加者の皆さんから聞いたトピックスをまとめたものです。

アイ・リンクタウン展望施設から市川駅北側を撮影。中央が大門通り


〇大門通り
 現在は「シャッターが閉まりっぱなしのお店も多く、ちょっと寂しい商店街」という印象です。
 しかし、昭和初期は大邸宅や料亭があって、にぎわっていたのだそうです。
 明治に「陸軍教導団」が国府台に設置され、軍人たちが大門通りや根本辺りで遊んでいた模様。ちょっとした花街だったのですね。

 東京からは大人の男性たちが遊びに来るだけでなく、遠足で弘法寺にやってくる小学生もいたようです。
 小学生の悲しい水難事故の話については「勝手にパワースポット その7 下総国分寺」で紹介しました。

〇勝手にパワースポット その7 下総国分寺
https://life-livelihood.blogspot.com/2017/10/7.html

 また、競馬場や映画館もJR市川駅近辺にあったとのこと。

 現在では土地が切り売りされて、ビルや住宅の密集地となってしまいました。

〇手児奈霊神堂
 私は以前から手児奈の伝説を疑問視していました。
 理由としては、行基が手児奈の霊を供養するために寺を建立したこと。
 行基は朝廷から弾圧を受けながらも、民衆のために社会事業を行ったそうです。そんな行基が、男女のいざこざで亡くなった女性がかわいそうだからと、わざわざこの地にとどまって寺を建てるでしょうか。

〇【勝手にパワースポットその5 手児奈霊神堂の池
https://life-livelihood.blogspot.com/2017/09/5.html

 ガイドの岡田さんから手児奈について「諸説あり」と聞いて、納得。国府台にあった国府の役人の娘だったという説もあるとのことでした。

 そして手児奈霊神堂の池。

 これはもともと川だったのだそうです!
 せき止められて池になってしまったのだそうで、「この池の水を全部抜くと、歴史的に面白いものがたくさん出てくるはずです」とガイドの岡田さん。

 どうして川をせき止めたのか、気になるところです。

〇亀井院
 亀井院の「亀」は、もともと「瓶(かめ)」だったのだと、ガイドの岡田さんが教えてくれました。
 山のほうから流れて来る雨水などをためていただけとのこと。
 湧き水じゃなかったの?? ちょ、ちょっと、残念かも……

 亀井院の近くのアパートがある場所には、幕末に大林院というお寺があったそうです。戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦で敗れた新撰組の土方歳三が、大林院で打ち合わせを行って、宇都宮を目指したのだとか。

〇真間万葉顕彰碑
 大門通りなどには、万葉集の句が書かれたパネルが、民家の塀にところどころ設置されています。
 同じような目的でしょうか、江戸時代は元禄年間に、万葉集の句をたたえる石碑「真間万葉顕彰碑」が建てられたとのこと。

 「えっ、そんなのあったっけ??」という感じですが、なんと、市川市の文化財なのだそうです。




存在感は……


〇真間山弘法寺
樹齢400年の伏姫桜は、もう見頃を迎えていました

 江戸時代は紅葉の名所だったという真間山弘法寺。
 戦国時代に行われた国府台合戦に登場する市河城(市川城)が、ここ弘法寺だったのではないかという説があるのだそうです。ガイドの岡田さんによれば、裏側の細い道は堀だったと考えられるのだそうです。

 境内の墓地には「大名墓」と呼ばれる、珍しいお墓があるとのこと。特徴はその形で、五角形をしています。
大名墓


〇木内ギャラリー
以前にも何度か足を運んだ木内ギャラリーですが、学芸員の方から説明してもらうのは初めてでした。建具や窓枠などは、旧木内別邸(大正前期の建築物)の洋館のものが、そのまま使われているそうです。




〇台地を削り取って地形が変わっちゃった問題
 弘法寺の東側から須和田公園の西側にかけて、もともとは台地でつながっていたとガイドの岡田さん。
 大正に大規模な埋め立て工事を行うため、この台地を削って土を持って行ってしまったのだそうです。地形が大幅に変わったと思われます。
写真奥の木が生えている一帯が須和田公園。屋根しか見えてない住宅地は、大正に行われた掘削の結果、できたもの


〇須和田遺跡
 正直、以前から「しょぼいなあ……」と思っていた須和田遺跡。

この写真は2017年に撮影したものです

 実は、木や萱(かや)を使って住居を再現していたそうですが、定期的にいぶす必要があるなど維持にお金がかかるとのこと。結果として土台だけという今の状態になったと、ガイドの岡田さんが話していました。

〇鏡石
 冒頭で紹介した「本とワークショップ 知恵の木」では、作文ワークショップを行っていました。
 その題材に使っていたのが鏡石の看板。これがもう、ものすごい悪文なのです。言葉のかかり受けができていない、文にねじれが生じているといった技術的な部分以上に、「誰かに何かを伝えたい」という意志がまったく伝わってこない文章。

この写真は2017年に撮影したもので、現在は雑草だらけでひどい状況……

 そんな鏡石も、ガイドの岡田さんの説明で「なるほど!」と納得。看板はいらないんじゃないのかな……

 まず、鏡石はレプリカとのこと! 本物はなくなっちゃったようです。「なんだよ、それ」と笑っちゃいそうになりました。

 須和田の辺りには古墳があったそうで、鏡石は枕石だった可能性があるとガイドの岡田さんは話していました。
 枕石とは、死者の頭の下に置く石で、中央がへこんでいるのはそのためだと。

〇地蔵山
 市川がもともと松と砂浜の土地でした。

 その名残があるのが、地蔵山なのだそうです。
 ガイドの岡田さんの話から類推すると、江戸時代からの共同墓地であるため、都市・宅地開発が行われなかったのではないでしょうか。



「いぼとり地蔵」とも

 高さが2メートルほどもありそうな、大きなお地蔵さまです。
 お地蔵さまの周囲のお墓は江戸時代のものだそうで、舟形の墓石が特徴とのこと。



 街歩きに参加した人のリアクションが最も大きかったのが、この地蔵山でした。駅のすぐ近くに、ひっそりとある墓地なので、市川に何十年も住んでいる人も気が付かなかったようです。


 ガイドの岡田さんのおかげで、魅力を再発見できたJR市川駅北側。
 この岡田さんは松戸在住。市川の人ではなかったのです! しかも勤務先はビールメーカー。町の歴史を調べる仕事でもなさそうです。どうして市川にこれほど詳しいんだろう……??

 街にも人にも謎あり、歴史あり。楽しい1日でした。

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