勝手にパワースポットその5 手児奈霊神堂の池
手児奈霊神堂
〒272-0826
千葉県市川市真間4-5-21
1400~1500年ほど前、市川駅の南側は「人煙稀な葦原」でしたが、北側にはかなり古い時代から集落ができていたようです。
手児奈(てこな)という美しい女性が、現在の市川真間に住んでいたという伝説が残っています。
市川市のホームページによると、手児奈を巡って現地の男性たちが争い、うわさを聞きつけて都からも旅人がやって来たのだそうです。この情報から国府台に役所があったと推測できるので、奈良時代の初期に手児奈は生きていたのでしょう。
手児奈は自分のために男たちが争うことを悲しみ、海に身を投げたとのこと。
今は住宅街の市川真間は、この頃は海岸だったようで、手児奈霊神堂の敷地には松があります。
浜に打ち上げられた手児奈が葬られたのが手児奈霊神堂だそうです。
手児奈の伝説は、後世の男性たちを魅了したようですね。
奈良時代の歌人で「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」という歌を詠んだ山部赤人(やまべのあかひと)は、手児奈の歌を残したそうです。
また、東大寺の大仏を作る責任者となる行基(ぎょうき)が、手児奈の霊を供養するために求法寺(ぐほうじ)を737年に建立し、この寺が今の弘法寺とのこと。
当時は飛行機や新幹線がなく、山部赤人や行基は市川と京都、奈良を歩いて移動したのでしょう。
昔の人の脚力はすごいと思います。
現在、手児奈は安産の神様として信仰されているそうです。
私は手児奈の伝説には特に魅了されないのですが、手児奈霊神堂の池の近くではいつも立ち止まり、ジッと水面を見入ってしまいます。
暖かい時期にはミドリガメなども見られるような、ごく普通の池なのですが。
撮影した日は風が強く、水面がたびたび波立ちました。
風がやんだ瞬間、鏡のように水面に空が映ります。
その繰り返しを、私はしばらく見続けていました。
ここからは、私の勝手な想像です。
多くの場合、歴史や伝説などは、後世の人々の都合のよいように変えられています。
権力者が自分を正当化するために、奪い取った物を「譲られた」、人気があったライバルを「実は腹黒い」などと言い換えて、吹聴して回ったり文書として残したりするわけです。
そのようなことを踏まえ、手児奈は自分に言い寄る多くの男性たちに思い悩んで命を絶った悲劇のヒロインではないかもしれないと、私は思ってしまうのです。
理由としては、行基が手児奈の霊を供養するために寺を建立したこと。
行基は日本各地を巡って、民衆のために橋や道を作ったり、治水工事をしたりしたお坊さんです。民衆からの信頼が厚く、人気もあった行基に対し、朝廷は弾圧したとのこと。
民衆のために働いているお坊さんが、男女のいざこざで亡くなった女性のためにわざわざ寺を建てるでしょうか。
加えて「求法」とは、仏法を求めるという意味だそうです。
『西遊記』の三蔵法師がありがたいお経を求めてインドに行ったことも「求法」。中国からインドまで歩いていくというのは、砂漠や峠を越える命がけの旅でした。
中国の西に位置するタクラマカン砂漠は、「生きては帰れない」という意味を持つウイグル語からその名がついたようです。
ですから求法には、厳しさ、困難、忍耐という語感もあるように思います。
自分の利益のためでなく、何か別の目的で命がけで行動をした女性。それが手児奈だったのではないか。
手児奈の行動が朝廷側の意に沿わないものだったので、民衆は現在のような伝説をこしらえて事実を隠し、手児奈の霊を供養した。
後に市川真間を訪れた行基は民衆から手児奈に関する真実を聞き、求法寺を建立した……
そんなことを勝手に想像して、手児奈霊神堂の池の辺りは自分自身を見つめ直し、決意を固めるための場所だと感じています。
●追記 2017年1月12日
〒272-0826
千葉県市川市真間4-5-21
1400~1500年ほど前、市川駅の南側は「人煙稀な葦原」でしたが、北側にはかなり古い時代から集落ができていたようです。
手児奈(てこな)という美しい女性が、現在の市川真間に住んでいたという伝説が残っています。
市川市のホームページによると、手児奈を巡って現地の男性たちが争い、うわさを聞きつけて都からも旅人がやって来たのだそうです。この情報から国府台に役所があったと推測できるので、奈良時代の初期に手児奈は生きていたのでしょう。
手児奈は自分のために男たちが争うことを悲しみ、海に身を投げたとのこと。
今は住宅街の市川真間は、この頃は海岸だったようで、手児奈霊神堂の敷地には松があります。
浜に打ち上げられた手児奈が葬られたのが手児奈霊神堂だそうです。
手児奈の伝説は、後世の男性たちを魅了したようですね。
奈良時代の歌人で「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」という歌を詠んだ山部赤人(やまべのあかひと)は、手児奈の歌を残したそうです。
また、東大寺の大仏を作る責任者となる行基(ぎょうき)が、手児奈の霊を供養するために求法寺(ぐほうじ)を737年に建立し、この寺が今の弘法寺とのこと。
当時は飛行機や新幹線がなく、山部赤人や行基は市川と京都、奈良を歩いて移動したのでしょう。
昔の人の脚力はすごいと思います。
現在、手児奈は安産の神様として信仰されているそうです。
私は手児奈の伝説には特に魅了されないのですが、手児奈霊神堂の池の近くではいつも立ち止まり、ジッと水面を見入ってしまいます。
暖かい時期にはミドリガメなども見られるような、ごく普通の池なのですが。
撮影した日は風が強く、水面がたびたび波立ちました。
風がやんだ瞬間、鏡のように水面に空が映ります。
その繰り返しを、私はしばらく見続けていました。
ここからは、私の勝手な想像です。
多くの場合、歴史や伝説などは、後世の人々の都合のよいように変えられています。
権力者が自分を正当化するために、奪い取った物を「譲られた」、人気があったライバルを「実は腹黒い」などと言い換えて、吹聴して回ったり文書として残したりするわけです。
そのようなことを踏まえ、手児奈は自分に言い寄る多くの男性たちに思い悩んで命を絶った悲劇のヒロインではないかもしれないと、私は思ってしまうのです。
理由としては、行基が手児奈の霊を供養するために寺を建立したこと。
行基は日本各地を巡って、民衆のために橋や道を作ったり、治水工事をしたりしたお坊さんです。民衆からの信頼が厚く、人気もあった行基に対し、朝廷は弾圧したとのこと。
民衆のために働いているお坊さんが、男女のいざこざで亡くなった女性のためにわざわざ寺を建てるでしょうか。
加えて「求法」とは、仏法を求めるという意味だそうです。
『西遊記』の三蔵法師がありがたいお経を求めてインドに行ったことも「求法」。中国からインドまで歩いていくというのは、砂漠や峠を越える命がけの旅でした。
中国の西に位置するタクラマカン砂漠は、「生きては帰れない」という意味を持つウイグル語からその名がついたようです。
ですから求法には、厳しさ、困難、忍耐という語感もあるように思います。
自分の利益のためでなく、何か別の目的で命がけで行動をした女性。それが手児奈だったのではないか。
手児奈の行動が朝廷側の意に沿わないものだったので、民衆は現在のような伝説をこしらえて事実を隠し、手児奈の霊を供養した。
後に市川真間を訪れた行基は民衆から手児奈に関する真実を聞き、求法寺を建立した……
そんなことを勝手に想像して、手児奈霊神堂の池の辺りは自分自身を見つめ直し、決意を固めるための場所だと感じています。
●追記 2017年1月11日
『ジュニア版 市川の歴史』(中津攸子、市川よみうり新聞社)と『手児奈』(西川日恵、文芸社)によれば、手児奈は大化の改新よりも前に生きていたと考えられているそうです。
ですから奈良時代の初期ではなく、飛鳥時代の人ということになります。
『手児奈』では2つの伝説が紹介されていました。
1つは、手児奈が継母のために水汲みなどで尽くしていたという話。
もう1つは、手児奈が別の土地の男性と結婚したが、なぜか海に流され、生まれ故郷の市川真間にたどり着き、地元の漁師などに隠してもらってひっそりと生きていくという話。
どちらも結局は、自分に言い寄る多くの男性たちに思い悩んで海に身を投げたという結末のようです。
万葉集に収載された高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)が、この結末を歌で詠んでいました。
手児奈が水汲みをしたとされる「真間の井」は、霊堂の北側にある亀井院の敷地にあるそうです |
●追記 2017年1月12日
真間の井の周辺も、手児奈霊神堂の池と同様、立ち止まってしまう場所でした。
水音で、一瞬時間を忘れてしまいました |
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