かつて市川市内にあった百貨店 丸興・西武百貨店・京成百貨店・十字屋・緑屋・松坂屋

 東洋経済オンラインの記事に、「百貨店が全滅した街」「百貨店全滅タウン」として市川市が紹介されていました。

○開業時から「デパートとしての魅力に欠ける」「中途半端な大型店」と言われていた…千葉にある「百貨店が全滅した街」の本質要因

○「駅前が廃墟化してる?」「人も歩いてない?」と思いきや…千葉にある「百貨店全滅タウン」が今も賑わう理由

 タイトルにある「本質要因」については、隣の東京に品ぞろえのよい百貨店(デパート)があるから、市川市にある中途半端な百貨店で服や贈答品などを購入する市民が少なかったということになりそうです。東洋経済オンラインの記事からの引用は、末尾に掲載しますが、ぜひ記事を読んで確認してください。

かつて百貨店があった場所




 地元民としては、「百貨店が全滅した街」「百貨店全滅タウン」という言葉にモヤモヤと違和感を覚えてしまいました。

 市川市については江戸時代は江戸、明治以降は東京の隣という立地で、特に高度成長期には東京に流入する人口があふれ出してくる形で発展していました。
 クラナリ編集人も、大学進学がきっかけで東京で暮らすようになり、就職後も都内に住み続け、出産を機に市川市へと引っ越してきました。つまり東京を経由して市川にやってきた、「仕事の場も遊びの場も東京」だった人間です。こうしたライフスタイルの市民が、市川市にはかなり多いように思います。

 市川市内に百貨店ができたのは高度成長期という日本の歴史の中でも特殊な時期で、当時は計画性のない、かなりめちゃくちゃな開発が進んでいました。

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 同じ時期、百貨店の売り上げも伸びていたため、地方でも「駅前」など立地さえよければ百貨店が進出していたようです。マーケティングその他無視して百貨店を作ってしまったから、長続きしなかったのではないかと。

 市川市だから百貨店が全滅したというよりも、日本全体のトレンドの中で百貨店が消えたというのが、一市民の個人的な印象です。

 今回は、以下の資料とWikipediaを主に参照しながら、市川市にかつて存在した百貨店についてまとめてみました。

○戦後の日本における百貨店の盛衰 令和4年6月21日 一般社団法人ディレクトフォース(DF)産業懇話会
※素人にでもわかるようによくまとまっているので、お勧め!


 日本で百貨店の歴史が始まったのは、1904(明治37)年です。株式会社三越呉服店(後の三越、現在は三越伊勢丹ホールディングス)が顧客に「デパートメントストア宣言」を行い、翌年の年始に新聞広告を出しました。


1904年(明治37年) 三越は、日本初の百貨店の始まりを宣言します。12月6日に「株式会社三越呉服店」を設立し、初代専務に日比翁助が就任。12月20日に全国の顧客お取り組み先へ「デパートメントストア宣言」を記載したご挨拶状を発送し、翌1905年(明治38年)の年頭1月2日に全国の主要新聞紙上で発表。すべてのステークホ ルダーに対して、百貨店の誕生を宣言し、ここから日本における百貨店の歴史がはじまりました。

「デパートメントストア宣言」新聞広告(明治38年1月)


 明治から大正にかけて、百貨店には以下の4つの傾向があったとのこと。

①洋風建築
・三越(1914年)ルネッサンス式5階建ての新館
「スエズ運河以東第1の大建築」
エスカレーター/シャンデリア/洋酒/ライオン像
・白木屋:1903年改装1階正面にベルギーから輸入したガラスを使った巨大ショールーム
・いとう呉服店(松坂屋名古屋):1910年ルネッサンス風木造
3階建て店舗(シャンデリア、ドアボーイ)
➁株式会社化での経営基盤確立
・白木屋、高島屋、大丸、十合(そごう)は株式会社化、
・すでに株式会社の三越、松坂屋は増資
③新しいライフスタイルの提案
・日本に洋風の要素を取り入れた生活を百貨店が提案
ー着物に欧風デザインを取り入れた「銘仙」
ー三越:三越ミツワ石鹸(1913年)/三越冷蔵庫(1918年)
ー商品の納入先を開拓し売場の取扱商品の拡大
④地方への波及
・鹿児島山形屋1916年ルネッサンス様式の鉄筋コンクリート建て地下1階地上4階建て店舗オープン
・佐世保「田中丸デパート」1920年開店(現在の佐賀玉屋)

 豪華絢爛で、日本人のあこがれをギュッと集めたトレンド発信の場所が百貨店だったとうかがえます。

 しかし、1939年9月1日から1945年8月15日までの第二次世界大戦で物資が乏しくなり、1945年3月10日の東京大空襲で東京は焼け野原となりました。
 都市の商業機能が破綻してしまった戦後は、各地でヤミ市(闇市)が発生しました。復員軍人や外地からの引揚げ者、軍需産業が放出した失業者は、飲食店や小物などを扱う小売業を始めました。


闇市では、当初、空地で人びとが地面に商品を広げて売ったり、道路上に縁日の露店のような店が並んでいましたが、やがてマーケットと呼ばれる長屋型の共同店舗が建設されます。その後、闇市の時代は終焉(しゅうえん)を迎えますが、その雰囲気は現在でも駅前に受け継がれています。
 闇市とは統制経済のもとで、公的には禁止された流通経路を経た「闇物資」を扱う市場のことを指します。戦争中に政府は経済統制を強め、昭和14年(1939)には価格等統制令を施行して、商品価格の統制と主要物資の配給制度を導入します。戦争の激化にともない物資が極端に不足すると、公定価格は低く抑えられていたため、多くの物資が闇取引に流れるようになりました。とくに終戦時には配給制度はほとんど崩壊しており、人びとは闇物資に頼るほかなかったのです。戦後も、混乱で取り締まりが弱体化しており、行政も闇市の存在を認めて、闇取引や不法占拠を黙認、半ば公認せざるをえませんでした。

 ヤミ市の様子を撮影した写真が、朝日新聞フォトアーカイブに多数保管されていました。食糧を手に入れるため、当時の人々が大変な苦労をしたことがわかります。

○朝日新聞フォトアーカイブ

 警価格統制の解除が進むと、警察は厳しくヤミ市を摘発するようになりました。
 1950年6月始まった朝鮮戦争による好景気「朝鮮特需」などで、ヤミ市は消えていきました。
 港区のあゆみに書かれているように、ヤミ市が開かれていた場所にマーケットと呼ばれる長屋型の共同店舗が建設され、マーケットが商店街、そして市川ビルのような商業施設の入るビルへと変わっていきました。

 朝鮮特需特需で不況から抜け出し、百貨店も都市部を中心に売上が急速に回復しました。
 1956年度(昭和31年度)の経済白書には「もはや戦後ではない」という言葉が残っています。
 百貨店が地方へと急激に拡大していたことから、中小の小売商を保護するために、
1956年(昭和31年)に第2次百貨店法が制定されました。この法律では、百貨店の新規出店や増床、営業時間、休業日数などが制限されました。

 法律で規制されるほど百貨店が拡大していた時期に、市川駅と本八幡駅の周辺で百貨店が開店しました。

○丸興本八幡店 1952(昭和27)~?年
本八幡店 → リブ本八幡店(市川市八幡町2-15-13[40][41]、1952年(昭和27年)10月開店[4])
店舗面積約3,329.70m2[34] → 約3,746m2[44]。
本八幡電器センター → デンキランド本八幡店(市川市八幡町2-15-10[41]、1981年(昭和56年)5月[44])
店舗面積約759m2[44]。
アイクリス本八幡店[45] → めがねギャラリー本八幡店(市川市八幡2-15-10[46]、1979年(昭和54年)8月開店[45][39])
店舗面積73m2[39]。
本八幡呉服店[37] → きのはな本八幡店[39](市川市八幡2-15-10パチオビル3F[72]、1980年(昭和55年)9月開店[37])
店舗面積132m2[37][39]。

パティオ(PATIO)は、千葉県市川市八幡二丁目にある本八幡ビル株式会社が管理する商業複合施設。正式名称は本八幡駅前共同ビル。地上8階、地下1階にテナントが入居している。かつてビル内には、月賦百貨店だった「丸興」が入居していた

 「市川市文学ミュージアム データベース」に収蔵されている以下の写真で、 「FRUITS SHOP KAMESEI(フルーツショップカメセイ)」の右隣に「丸興」のマークが見えます。
1969年撮影の本八幡駅前(市川市文学ミュージアム データベース



○西武百貨店市川店 1963(昭和38)~1971(昭和46)年

千葉県市川市市川1-21-3 京葉ビル 地下1階、地上5階建て
堤清二の高校時代の友人の父親(医師)が所有した京成本線市川真間駅前の土地が、日本住宅公団によって再開発され、京葉ビルが建てられた[146][147]。このビルの地下1階、地上1階~3階を西武百貨店が賃借して、1963年5月に市川店を出店した。延床面積は約1100坪(約3700㎡)。4階~5階は公団アパートであった。店舗の狭さもあって重点的な商品政策を採用し、子ども用品・ベビー用品に力を入れて、子ども連れの婦人を購入客として重視した[146]。

1971年4月30日に、西友ストアーに譲渡され西友市川店となり[148]、1996年5月18日に、外資系ディスカウントストア・ウェルセーブに業態転換[149]。ウェルセーブの事業撤退後は、たいらや(現在のエコス)に営業譲渡され[150]、たいらや市川店(後にエコス市川店)となったが、2009年に閉店。跡地はマンションが建てられた。

○市川京成百貨店 1963(昭和38)~2007(平成19)年 ※1階部分だけ残った
1963年(昭和38年)9月28日、京成百貨店初の店舗として開業[14]。地上4階建て[14]、京成八幡駅の駅ビルとして営業していた。
1984年(昭和59年)10月から京成ストアが経営を行い、1階にリブレ京成八幡駅前店、2階から4階には多数のテナントが出店し、実質的にテナントビルとなった。
京成百貨店の店舗が複数展開されてからは、「市川京成百貨店」と称することもあった。
本八幡駅北口再開発事業および建物老朽化に伴い、2007年(平成19年)3月をもってテナント部分(2階から4階)は閉店し、1階部分のリブレ京成だけの営業となる。その1階部分も2010年(平成22年)2月28日をもって閉店した。
跡地は再開発によりターミナルシティ本八幡が建設され、完成後の2013年(平成25年)9月に京成電鉄の本社が移転した。


○十字屋本八幡店 1963(昭和38)年~?年
株式会社十字屋(じゅうじや、英文表記:JUJIYA Co.,Ltd)は、かつて百貨店を初め、商業施設などを運営していた日本の企業。2007年(平成19年)1月16日に株式会社ダイエーに吸収合併された[2]。

1923年(大正12年)12月13日[4]、神奈川県平塚市にて、衣料品や身のまわり品を扱う十字屋呉服店として創業した[8]。
本八幡店(市川市八幡3-1-5[41]、1963年(昭和38年)9月27日開店[58]-)
売り場面積925m2[58] → 803m2[41]

十字屋もありましたよね。
布地や手芸用品をお手軽に購入できました。
確か毛糸の専門店もあったと。

 「市川市文学ミュージアム データベース」に収蔵されている以下の写真で、奥のほうに 「十字屋」の看板が見えます。
1973年撮影の本八幡駅前(市川市文学ミュージアム データベース

○緑屋本八幡店 1963(昭和38)~1976(昭和51)年
本八幡店(市川市八幡町3-1-15[153]、1963年(昭和38年)12月開店[132] - 1976年(昭和51年)2月29日閉店[118])
敷地面積約499m2[140]、延べ床面積約1,481m2[140]、売場面積約1,114m2[140]。
現:日新ビル。[独自研究?]

○松坂屋市川店 1977(昭和52)~1999(平成11)年
1977年、上野店の分店として開店[1][38]。1999年8月22日 閉店。地下1階地上5階のビルを借り、売り場面積は5082m2であった[38]。売上高ピークは28億円(1992年2月期)[38]。郊外の大型店との競争激化や消費不況などで業績が低迷し[39]、1999年2月期には売上高が13億6800万円(営業赤字3億円)[39]に落ち込み、業績の向上が見込めないことを理由に閉店した[38]。
千葉県市川市市川1-5-17 道口ビル(JR総武線市川駅北口 千葉街道沿い)
同ビルには2000年3月1日 オリンピック市川店が開店。
地元の中学・高校の学生服の取引があるため、閉店後隣地[38]の市川グランドホテルに「市川ギフトショップ」[39]を開設(330m2[38])するも2008年閉店。現在は「外商市川出張所」及び「市川学生服プラザ」として営業。
市川市市川1-3-18 明治安田生命市川ビル2階。

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 市川市内に百貨店ができたものの、千葉県内で利便性が高い市では、「買い物は東京で」という購買力の流出が見られていたとのこと。

 昭和三十年代の商業は発展途上にあって市民の購買力の流出はかなり高かった。昭和四十年代から商業勢力が強化されて購買力の吸収は強まったが、増加する人口の消費者行動が変化したので、依然として購買力の流出がつづいている。これは地方中心都市と異なって、千葉市は巨大都市の東京に距離的に近いことから、解消できない運命的な商業条件であった。

購買力の流出率の一〇パーセント以上が東京商圏に属するとすれば、松戸市(四六パーセント)、柏市・船橋市(二〇パーセント)、習志野市・鎌ケ谷町・浦安町(一八パーセント)、八千代市(一七パーセント)、我孫子市(一三パーセント)、流山市(一二パーセント)、野田市(一〇パーセント)などが東京商圏内であった。

 市川市内の百貨店は、三越本店など東京の百貨店と競争しなければならない環境下にあったわけです。百貨店ブームに乗って開業したものの、思うように売り上げが伸びなかったのでしょう。
 また千葉県ということで、市川市は東京都心と比べて自動車を保有する率が高くなっています(東京都心は駐車場代も非常に高い)。そんな千葉県では、地価が安く、広い駐車場を確保しやすい郊外で大型店ができました。

 自家用車が普及し始めた高度成長期に、市川市内の百貨店は、東京の百貨店だけでなく千葉郊外の大型店との競争にもさらされたと考えられます。資本力などの差などもあり、経営が厳しくなったり再開発の対象となったりして消えたようです。


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○開業時から「デパートとしての魅力に欠ける」「中途半端な大型店」と言われていた…千葉にある「百貨店が全滅した街」の本質要因

○「駅前が廃墟化してる?」「人も歩いてない?」と思いきや…千葉にある「百貨店全滅タウン」が今も賑わう理由

百貨店の衰退は、消費意欲の低下によるものではなく、むしろ消費者の目が早くから東京と同じ水準にあり、「中途半端な存在」を許さなかった結果だったのかもしれない。

鉄道整備が進めば進むほど、地元商業が空洞化するという危機感は、当時から共有されていたのだ。

結果として、市川市民にとって百貨店は、「わざわざ行く特別な場所」になる前に、便利すぎる交通網によって「日常の延長線上にある一商業施設になってしまった」のだ。

都心へのアクセスが良好であることは居住地としての魅力を高める一方、百貨店のような「ハレ」の業態にとっては、必ずしも追い風とはならなかった。

垂直方向に移動し、時間をかけて回遊する百貨店型の消費よりも、帰宅動線上で完結する消費のほうが、市川駅前では主流になっているのだろう。

市川で起きたのは、商業の衰退というよりも、消費の役割分担の進行だった可能性がある。対面や格式を伴う「ハレ」の消費は東京へ。地元には、価格と利便性を重視した「日常」の消費が残った。

駅前のダイエーが限られた敷地を多層階で補う「垂直型」の商業施設であるのに対し、ニッケは広大な敷地を活かした「水平型」の施設である。館内を平面的に移動できる構造に加え、大規模な駐車場を備えたことで、車での来訪を前提とした消費行動にも対応した。

市川で起きたのは、商業の衰退ではない。東京を前提とした生活設計の中で、百貨店という業態が「必要なくなった」という構造的な変化だったのである。
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