「東市川南平台高級住宅地」はどこなんだ問題
1955年頃から1970年代にかけての高度成長期に人口は増え、日本の住宅は不足していました。その当時、マイホームはあこがれの的だったのです。
政府もニーズにこたえるべく、集合住宅を建設する政策を進め、民間業者は住宅地を乱開発しました。
しかし、この熱狂的な「マイホームブーム」は、1973年に起きたオイルショックなどによって収束を迎えます。
そして50年ほどたった今、「空き家問題」が深刻化しています。人口減少で、集合住宅も一軒家も余っているわけです。
『限界ニュータウン 荒廃する超郊外の分譲地』(著/吉川祐介 太郎次郎社エディタス)は、主に千葉県北東部の、かつてのニュータウンなどに関するレポートが盛り込まれています。
この本で、民間の不動産業者が折り込みチラシなどで使っていたあおり文句も紹介されていました。
「場所と値段で勝負!」
「低金利時代の今、良い土地は借りてでも買っておきたい!」
ほほう、これは面白い。
そう思って、次に読んだのが『昭和の東京郊外 住宅開発秘史』(著/三浦 展 光文社)。
この本をパラっとめくると、市川市内の住宅地のチラシが掲載されていたのです。
『昭和の東京郊外 住宅開発秘史』より |
東市川南平台高級住宅地
投資最適
東市川南平台? そんな地名はありません。念のため、ネットで検索したのですが、ヒットしませんでした。
チラシには「現地案内所 国電市川駅前」と書かれているので、市川駅の近くという可能性があります。
そのようなわけで、「東市川南平台高級住宅地」を探し始めるという、『クラナリ』編集人の悪い癖が出てしまいました。
ちなみに、「南平台町(なんぺいだいちょう)」は、渋谷区にある高級住宅街で大邸宅が建ち並ぶとのこと。「明治半ば以降から邸宅街として発展した」とウィキペディアでは説明されています。
昭和30年代に民間の開発業者が造成した住宅分譲地には、「南平台」が多く使われていたようです。
まあ、なんて図々しいっ!
ちなみに、東急電鉄溝の口駅よりも先で、まだ電車が通っていない頃の神奈川県の土地(おそらく、現在の宮崎台駅周辺)を「人気の焦点 南平台町分譲地」と名付けて広告を打っていました。それにしても「人気の焦点」って何でしょうね???
さておき、「東市川南平台高級住宅地」の焦点は、「東市川」に絞られることになりました。
市川駅は、市川市内でも西側に位置します。「東市川」については、「市川駅から近い地域の中で、駅よりも東側」か「市川市の東側」か、どちらかを指しています。
チラシのポイントは「附近の公団住宅風景」。公団(日本住宅公団)は、かつて存在した特殊法人で、公団が市川市内に作った団地といえば、市川市本北方2-3に位置する中山団地です。中山団地は、1967(昭和42)年3月に竣工しています。
チラシの写真を見ても、「附近の公団住宅風景」は中山団地が濃厚。
あれ?
市川駅から中山団地までは、非常に遠いですよね。中山団地の最寄り駅は京成本線の鬼越駅ではないでしょうか。
ここにチラシマジックがあるのです。「秋葉原~市川 僅か20分」と、わざわざ赤字で書かれています。鬼越駅だと「僅か20分」では秋葉原に行けません。
業者は、「秋葉原から近い」という雰囲気を醸し出すために、あえて現地案内所を市川駅前にしたのでしょう。集まったお客さんは、ここからバスなどに乗せられ、中山団地近くの「東市川南平台高級住宅地」へと案内されたに違いありません。
いつもお世話になっている今昔マップで中山団地周辺を確認しましょう。地図の青いピンが中山団地です。
昭和20年には田んぼが広がっていました。
昭和40年になると、中山団地の右下に、道路だけができていて、住宅がほとんどない地域が出現します。
昭和51年には、かなりの数の住宅ができています。
現在の航空写真でも確認しましょう。赤いピンが中山団地です。
中山団地の右下に、扇形のように不自然な区画がされている一帯があります。逆をいうと、開発された可能性が高い地域です。
中山団地の右下に、扇形のように不自然な区画がされている一帯があります。逆をいうと、開発された可能性が高い地域です。
Googleマップより |
以上のことから、「東市川南平台高級住宅地」は本北方(もときたかた)辺りだと、『クラナリ』では推測しました。
ちなみに、北方町は「ぼっけまち」。地名というものは、実にややこしい……
最後に、『クラナリ』は検証・探求するサイトではありません。素人である『クラナリ』編集人が、さまざまな情報をもとに右往左往する姿をただ面白がるサイトなので、不正確な情報が含まれている可能性が多々あります。今回の記事も勝手な推測です。千葉県や市川市には問い合わせておりません。
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