市川市立富美浜小学校・福栄小学校・南行徳中学校が、ほぼ同じ敷地内にあるように見える問題
市川みらいアーカイブに小学校区を盛り込む作業を行っていると、市川市立の富美浜小学校と福栄小学校、さらに南行徳中学校が隣り合わせで存在することに、今頃になって気づきました。
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| 国土地理院地図より |
どういうことかとネット検索すると、Xでの「本八幡市」さんのポストがヒット。多数のコメントが寄せられていたものの、隣接している理由はわかりませんでした。
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| 「本八幡市」さんのポスト |
そのため、経緯を調べ始めたら、例のごとく、どんどん話が長くなりました。
結論は、営団地下鉄東西線が開通し、行徳駅が開業した後、急激に人口が増えたことで、急ピッチで市川市が既存の学校から分離して新しい学校を作っていったからだと考えられます。
「だったら、既存の校舎を増築すればいいんじゃないか」と思いますよね、つい。
おそらく、既存の学校を運営しながら増築するのは、子どもたちにとって危険だし、教室を増やすだけだと音楽室や理科室、校庭などの利用配分も難しくなるのでしょう。現在、子どもの数が急増しているさいたま市では、子どもたちが校庭で遊べない事態に陥っているとのこと。
こうしたことから、新たに校区を設定して小学校を新設したと考えられます。『校歌は生きている』には、福栄小学校は、当初、福栄中学校の近くに建設する予定だったと書かれていました。
1965(昭和40)年測図の地図を見ると、福栄小学校と南行徳中学校のある場所は、水たまりというか貯水池だったようです。今では信じられませんね。
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| 今昔マップより |
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江戸時代に下総国の行徳領とされていたのは、浦安から船橋の一部にかけての地域で、塩田が広がっていました。
1868年に明治となり、江戸幕府から明治政府へと体制が移行します。
このゴタゴタの中、1871(明治4)年7月の廃藩置県の第1次府県統合の際に下総国内に設置されたのが印旛県。現在の千葉県北西部と茨城県南西部、埼玉県東部のごく一部を管轄だったそうで、印旛県庁が一時的に徳願寺(浄土宗)に置かれました。
また、第1次府県統合で、行徳領と呼ばれていた地域が印旛県葛飾郡に含まれることになったようです。
「富国強兵」をスローガンに掲げた明治政府は、1872(明治5)年に学制を発布します。特に小学校での教育が重視され、満6歳の子どもは小学校に通うことが義務付けられました。
現在とは違って、小学校の建設費も授業料も、地元の住民や親がすべて負担していました。当たり前の話ですが、校舎建設や教員養成の追いつかず、江戸時代から続く寺子屋を小学校整備に利用したのでした。ちなみに、授業料が原則廃止となったのは、1900(明治33)年です。
こうした背景で、徳願寺には、1873(明治6)年に行徳小学校の仮校舎が建てられました。行徳小学校の分校として、源心寺(浄土宗)に拡智小学校が開設(1874年に欠真間小学校に改称)。
同じ年の1873(明治6)年、法伝寺(浄土宗)に湊小学校が開設されました。
翌年の1874(明治7)年、法伝寺(真言宗智山派)に新井小学校が開設されました。
1873(明治6)年6月15日に、木更津県と印旛県が統合されて、千葉県ができます。
1878(明治11)年には、千葉県葛飾郡の区域が、東葛飾郡となりました。野田市立図書館の千葉県東葛飾郡明細地図を見ると、実に興味深いです(今回とは関係なのですが、大洲が「本行徳」になっています)。
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| 野田市立図書館 千葉県東葛飾郡明細地図 |
1879(明治12)年に教育令が公布されました。教育令では、学区制を廃止し、町村を小学校の設置単位と位置付け、その行政事務を行うために町村に人民公選の学務委員を置くこととされました。そして、小学校の統合が行われました。
その1年前の1878(明治11)年に、欠真間小学校を本校、1876(明治9)年に廃校寸前とった湊小学校と、新井小学校を分校にするという形が取られました。給料が払われなかった教員が辞めたり、クラスが増えて教員が対応できなかったりしたからだと、『校歌は生きている』に書かれています。
1886(明治19)年の学校令で、欠真間小学校は欠真間尋常小学校と改称します。
1889(明治22)年の町村合併で、千葉県東葛飾郡押切村と湊村、湊新田村、欠真間村、新井村が合併して南行徳村になりました。欠真間尋常小学校は陽徳尋常小学校、湊分校は明徳小学校、新井分校は陽徳尋常小学校分校と改称します。
そして1920(大正9)年に陽徳尋常小学校と明徳小学校が合併して、南行徳尋常高等小学校になりました。校舎は、現在の場所に1922(大正11)年に完成しました。
陽徳尋常小学校は、現在の南行徳図書館の場所にあったと考えられます(今昔マップより)。なお南行徳図書館は、1983(昭和58)年10月に開館しました。
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| 今昔マップより |
1937(昭和12)年の町制で、南行徳村は南行徳町になります。
1955(昭和30)年に千葉県東葛飾郡行徳町、1956(昭和31)年に南行徳町が、市川市に合併されます。それよって市川市立南行徳小学校になります。以前は、千葉県東葛飾郡南行徳町立南行徳小学校だったと考えられます。
1969(昭和44)年に、営団地下鉄(現在は東京メトロ)行徳駅が開業。
1974(昭和49)年に福栄1丁目自治会ができ、「当時は子供達が多く、昭和51年には子供会が立ち上がりました」と自治会のホームページに書かれていました。行徳駅の開業で、一気に人口が増えたのだと考えられます。
1975(昭和50)年に、南行徳小学校から分かれて新浜小学校が開校。
さらに1978(昭和53)年には、南行徳小学校、新浜小学校から分かれて富美浜小学校が開校しました。児童759名、20学級だったとのこと。
1980(昭和55)年に、新浜小学校と富美浜小学校から分離して南新浜小学校が開校しました。
1981(昭和56)年には、営団地下鉄東西線南行徳駅が開業します。
福栄小学校は、1985(昭和60)年に開校。どこの小学校から分離したのかは、学校ホームページに記載されていません。『校歌は生きている』には、富美浜小学校からだと書かれていました。
隣接する南行徳中学校は、福栄中学校(1979年に第七中学校から分離発足)から分かれて開校しました。
なお福栄小学校については、給食室がなく、福栄中学校からの配食です。隣接している富美浜小学校・南行徳中学校(どちらも給食室あり)からではないのが、ちょっと不思議。
『校歌は生きている』には、福栄小学校は、当初、福栄中学校の近くに建設する予定だったものの、土壌汚染の関係で現在地が選ばれたと書かれていました。
富美浜小学校は、通学区域は南行徳1丁目、南行徳2丁目(2番1号を除く)、南行徳3~4丁目、相之川4丁目、福栄4丁目1~13番、32~33番、欠真間2丁目4番、6~15番、24~29番、新井3丁目で、面積は1.71平方キロメートル。
一方の福栄小学校は、福栄1丁目と福栄3丁目で、0.32平方キロメートル。
ちなみに、南新浜小学校は、福栄2丁目、福栄4丁目14~31番、新浜1~3丁目、入船、日之出、千鳥町、塩浜1~2丁目、行徳駅前4丁目23~28番で、3.55平方キロメートルです。ただし、行徳近郊緑地なども地区内に含まれています。
■主な参考資料
市川市立富美浜小学校
明徳尋常小学校開校旧跡之碑 - 発祥の地コレクション
福栄1丁目自治会
市川市学校環境基本計画
国立公文書館
Wikipedia
市川市のサイト(いろいろ)





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