行徳で塩業が始まったのは、結局のところ、室町時代の末期ということだろうか その3 「行徳塩業」といえる段階になるのは江戸時代だろう

 これまで、製塩が始まる1483年頃の行徳について調べてきました。


■行徳で塩業が始まったのは、結局のところ、室町時代の末期ということだろうか その1

■行徳で塩業が始まったのは、結局のところ、室町時代の末期ということだろうか その2


 今回が「その3」になるわけですが、先に結論をいうと、「行徳塩業」といえる段階になるのは、市川市の資料にあるとおり、世の中が安定した江戸時代のことでしょう。

戦国時代には江戸湾岸における塩の最大の生産地となっていましたが、「行徳塩業」としての発展は徳川家康の関東入部以降で、江戸時代を通じて盛衰の歴史を繰り返しながら継続されていきました。
しかし、塩田は自然の土に帰るため、砂に含む塩分が薄らぎ、やがて衰退していくことになりました。

 江戸幕府が開かれて、世の中が安定しなければ、塩業をはじめ、産業を各地で育んでいくのは無理だったという印象です。
 戦国時代には、大小問わずあちこちで戦いがあり、城作りも行われています。「○○(武将)が△△城を築いた」とあっても、土木作業するのは武将ではないですよね? その地に住んでいる人々、ほとんどが農民です。戦いや築城の度に人手を駆り出されていたら、生きていくのが精いっぱい。産業を発展させる余裕などありません。




******
 1454年に鎌倉公方(室町幕府の公的な出先機関、長官)の足利成氏(しげうじ)が、関東管領の山内上杉家の上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺したことから、享徳(きょうとく)の乱が始まります。背景は、鎌倉公方が京都の将軍に対抗意識を抱き、関東管領は室町幕府側についていたということでした。

 上野国の里見(現在の群馬県高崎市内)を本拠とした里見氏は、源氏の支流である新田氏の一族です。里見氏と武田氏(甲斐武田氏の支流)は鎌倉公方派で、関東管領の上杉氏の勢力圏であった上総国と安房国に侵攻しました。
 そして、安房国に入ったのが里見義実(よしざね)です。また、第12代甲斐武田氏当主武田信満の子の武田信長は上総国に入り、1456年頃に足利成氏から上総国の支配を認められました。
 上総武田氏は武田信長から始まる家系で、武田信長の息子の武田信高の死後、本家は庁南(ちょうなん)城で庁南武田氏と名乗り、分家は真里谷(まりやつ)城(現在の木更津市真里谷)に本拠を構え真里谷氏と名乗りました。

 足利成氏は鎌倉を放棄した後、1457年に下総古河(こが、現在の茨城県古河市)を本拠地としたことから古河公方と呼ばれるようになりました。
 第3代古河公方足利高基の弟である足利義明は、後北条(ごほうじょう)氏とつながりを持つ足利高基と対立しました。

 そんな足利義明は、真里谷信清の支援の下、1517年に下総国の小弓(おゆみ)城(現在の千葉市南生実町)を攻撃して千葉氏家臣の原胤隆(たねたか)・原友胤(ともたか)・原虎胤(とらたか)・高城胤吉(たかよし)らを破って小弓城を占拠。そして、「小弓公方」を自称して、鎌倉公方の正当な継承者はどちらか、房総を支配するのはどちらかということで古河公方と対立しました。

 高城胤吉は、小金栗ケ沢城(現在の千葉県松戸市栗ケ沢)に移って原胤清を迎え入れ、自分の本拠として小金城(千葉県松戸市大谷口)を築きました。

小弓公方サイド(本拠地:小弓城) 里見氏・真里谷氏・臼井氏(現在の千葉県佐倉市臼井田付近)
古河公方サイド(本拠地:古河城) 結城氏(現在の茨城県西部)・庁南武田氏・千葉氏

要所:本佐倉城(現在の千葉県佐倉市大佐倉と印旛郡酒々井町本佐倉)・関宿城(せきやどじょう、現在の千葉県野田市関宿三軒家)

 1519年には真里谷氏の椎津城(しいづじょう、現在の千葉県市原市椎津)を、古河公方サイドの結城六郎を攻めました。これに対し、足利義明は里見氏らの軍勢で反撃。

……と、ここまで見てきて、市川市の地名がまったく登場していません。上記以外にも、さまざまな戦いが行われていますが、当時の市川市は「中央の空白地帯」という印象。



 北条氏綱は後北条氏第2代当主です。父親の北条早雲(伊勢宗瑞)の頃は居城が伊豆の韮山城でしたが、北条氏綱は扇谷上杉氏の地盤である相模を奪い、小田原城を本拠地にしました。そして武蔵国を巡って扇谷上杉氏と対立しました。
 1524年の高輪原(たかなわはら)の戦いで、北条氏綱が扇谷上杉氏の上杉朝興(ともおき)を敗退させて、江戸城を得ます。
 1526年には北条氏綱と、安房里見氏の第4代当主である里見義豊(よしとよ)との間で鶴岡八幡宮の戦いが起こります。当主は里見義豊だったものの、実権は叔父の里見 実堯(さねたか)が握っていました。

 竹田氏の支流では、真里谷信清の死後、妾の子の真里谷信隆が当主になりましたが、正妻の子の真里谷信応(のぶまさ)の派閥が、足利義明や里見義堯(よしたか)と同盟を結んで、1537年に真里谷信隆を真里谷城から追放しました。いわゆる「お家騒動」ですね。このため、真里谷信隆は、後北条家の北条氏綱(うじつな)を頼って鎌倉へ逃れました。

 とにかく、「昨日までの味方が今日は敵」というような感じで、伊豆半島から房総半島にかけてはめまぐるしく政局・戦局が変わっていました。とてもじゃないけど、ついていけません……
 ただいえるのは、やはり市川市の地名がまったく登場していないということ。

当時の勢力図(小弓城跡より)



 こうして、とうとう名前が出てくるのが、第一次国府台合戦です。
 1538年に、扇谷上杉氏の下にあった葛西城(現在の東京都葛飾区)を北条氏綱が攻略したため、北条氏の勢力は下総へと伸びてきました。そのため、足利義明は奉行人筆頭の逸見山城守祥仙(へんみやましろのかみしょうせん)を国府台城に、別の部隊を相模台城(現在の千葉県松戸市)に配置しました。
 足利義明を脅威と感じた古河公方の足利晴氏(はるうじ)は、北条氏綱に援軍要請を行いました。氏綱にすれば、古河公方の命令に従って足利義明を討つという、大義名分を得たことになります。
 それを知った足利義明は、小弓城を出陣して国府台城へ向かいます。副将は里見義堯でした。

 北条氏綱は小田原城から江戸城に入り、葛西城に兵を進めました。そして、葛西城から軍勢を北に進め、松戸城の対岸で太日川(現在の江戸川)を渡りました。
 足利義明は国府台城を出て、北条氏綱を迎え撃つことにしました。両軍は相模台で衝突します。
 この第一次国府台合戦で、足利義明は戦死し、小弓公方は滅びました。
 結果として、後北条氏の勢力は房総半島の大半に及び、小金城主の高城胤吉も後北条氏サイドとなっています。

 1564年の第二次国府台合戦は、安房里見氏の第6代当主の里見義弘が、山内上杉家16代当主の上杉謙信から後北条氏攻めに呼応したことがきっかけです。里見義弘が出陣して国府台城に入ります。北条氏綱の子どもである北条氏康(うじやす)は江戸城から出陣して太日川を矢切付近で渡ると、里見軍の反撃に遭います。北条氏康の軍は退却したと見せかけて、翌日未明に江戸川を渡って国府台城の里見軍を夜襲します。里見軍は5000以上の死傷者を出して、里見義弘は安房に逃れました。
 後北条軍は、敗走する里見軍を追撃し、里見義弘の本拠である久留里城近くまで攻め込みます。しかし、上杉謙信が動く気配を見せたため、小田原に引き上げました。 
 また、正木時忠、土岐為頼、酒井敏房といった上総国の有力領主が離反して後北条氏サイドに入ったため、里見義弘は上総国の大半を失いました。
 しかし、1567年に里見義弘は三船山合戦で後北条軍を撃破して勢力を挽回します。佐貫城(現在の千葉県富津市佐貫)を本拠地として安房国から上総国・下総国にかけて領国体制を築きました。

 
 ここまで見てきて、第一次・第二次国府台合戦が行われた室町時代後期は、市川市はなんというか、存在感がなかったというイメージです。第一次国府台合戦の後で、後北条氏サイドの小金城(現在の松戸市)城主の高城氏の支配下にあったと推測できます。
 1565年に、千葉氏の家臣である篠田家の篠田雅楽助清久は、第二次国府台合戦で後北条氏サイドについたことから、現在の妙典の地を恩賞に与えられました。そして、中山法華経寺11世日典上人の弟子日宣法印を迎えて、妙好寺を建てました。

 なお、1573年に室町幕府が滅亡します。

 市川市の資料には、後北条氏が「行徳で生産された塩を年貢として取り立てたといわれています」と記載されています。
 また、上杉謙信が敵将の武田信玄に塩を送らせた故事から生まれた「敵に塩を送る」の塩が行徳産のものだったという言い伝えもあるようですが、この故事自体に諸説あるようで、なんともいえません。

 話を後北条氏に戻すと、1590年に豊臣秀吉の軍に小田原城を陥落させられます。なお、小田原城陥落の前に、高城氏は小金城の明け渡し、信濃国に移されます。
 同年に、小田原城に入った豊臣秀吉は徳川家康の関東転封を公表します。こうして関東八州(相模国、武蔵国、伊豆国、上野国、下野国、上総国、下総国、常陸国)が徳川家康の領地となり、徳川家康は江戸城に入りました。それから13年後の1603年に、徳川家康は征夷大将軍となって江戸幕府を開き、行徳は幕府直属の天領となりました。

 行徳が後北条氏の領国に含まれていたのは、52年ほどということになります。戦国時代は、まさしく乱世だったのだと実感します。

■参考資料
Wikipedia

日蓮宗ポータルサイト

行徳塩浜のみちを歩く - 市川市

【過酷な生き様】戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは?【作者に訊く】
Powered by Blogger.