行徳で塩業が始まったのは、結局のところ、室町時代の末期ということだろうか

 生物の歴史をさかのぼると、太古の海が生命の誕生の場でした。
 海といえば塩分。塩分たっぷりの場所から、陸という塩分も水分も少ない場所へと我々の祖先は生活の場を移したわけです。
 そのときに、貴重な塩分と水分をリサイクルできる体内システムが作られたと考えられています。

 陸上生活では塩分が貴重だからこそ、私たちの舌は塩味を「うまい」と感じるのかもしれません。現在では高血圧の原因として、ややもすれば敵視されがちな塩ですが、人類の長い歴史では珍重されたようです。
 ちなみに、塩については岩塩などがあったために、私たちの古い古い祖先はわざわざ作る必要は感じていなかったようです。農耕が始まった頃から、製塩も行われるようになったと考えられているとのこと。

 さて、市川市で塩といえば行徳。
1916年に撮影された塩作りの様子

 楫西光速(かじにし みつはや)博士は、大阪市西区出身。1958年に「下総行徳塩業史」という論文で、東京大学経済学博士号を取ったようです。「下総行徳塩業史」は市川市中央図書館の書庫にあり、禁帯出とのこと……。


行徳の製塩の起源は、『下総行徳塩業史』によると、「凡そ一千有余年前」とあり、当初は「自分遣用斗り」として始まったとされています。
戦国時代には江戸湾岸における塩の最大の生産地となっていましたが、「行徳塩業」としての発展は徳川家康の関東入部以降で、江戸時代を通じて盛衰の歴史を繰り返しながら継続されていきました。
しかし、塩田は自然の土に帰るため、砂に含む塩分が薄らぎ、やがて衰退していくことになりました。

 「凡そ一千有余年前」ということで、論文が書かれた1958年から1000年を引くと、958年。平安時代ということになります。
 平安時代には平安海進があり、1100年頃に最大で海水面が約60センチ上昇したとされています。『更級日記』(1060年成立)には、真間の長者の家が水没したという記述があるため、もっと低地に当たる行徳も海の下でしょう。人が定住できる状況だったとは考えにくいものです。
国土交通省地図で低地を水色に着色

 こうしたことから、平安時代後期以降が、行徳での塩作りの始まりと推測できます。
 ただ「塩業」というレベルではなく、いわゆる「ご自宅用」だったのではないかと。「自分遣用斗り」の意味が知りたいところです。

 行徳に人々が住むようになったのは、鎌倉時代の頃でしょうか。

店の由来を描いた六曲屏風
  源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、安房国に逃げ落ちる途中、兵糧もつきて行徳に漂着した際、
  「うどんや仁兵衛」がうどんや酒肴を出しました。
  このときに頼朝が笹りんどうの紋を与えたので仁兵衛は家名を「笹屋」と改めたといいます。

 石橋山の戦いは、1180年8月17日とされています。いわゆる「言い伝え」については、「言い伝え」として……。潮の流れや地形的にどうだろうかと……。
https://fujinkoron.jp/articles/photo/5232



 行徳という地名は、室町時代についたとされています。そして、本格的な塩業は、室町時代末期に始まった説がありました。

 「行徳(ぎょうとく)」は室町時代、この地で徳のあった修験者が村人から「行徳さま」と呼ばれていたのが地名になった。行徳千軒寺百軒といわれるほど民衆は信仰心が厚く、「徳を行う」ために寺々を巡って参拝し功徳(くどく)をつんだ。江戸時代の行徳領は浦安から市川南部、船橋西部にわたる33ヵ村でその中心が「本行徳(ほんぎょうとく)」であった。

行徳での製塩の創始は戦国時代に、後北条氏に年貢として納められていたといわれるが、もとは上総国五井で行なわれた塩焼きを本行徳村、欠真間村、湊村の3力村の者が習得し、塩焼きをはじめたと伝えられており、歴史的には、五井の製塩の方が古い。

 市川市・浦安市の行徳塩田や市原市の五井塩田は、室町時代末に開始されたといわれている。



■追記 2023年1月6日
 『行徳の塩づくり』(市立市川博物館)は1983年に発行されています。この本に「歴史上に、行徳塩づくりの様子が散見するのは、今から五〇〇年程前です」という記載がありました。1983年から500年を引くと、1483年。室町幕府第8代将軍の足利義政が、銀閣を建てた年とされています。
 戦国大名の北条氏(後北条氏)が、小田原城を本拠に南関東を支配し、塩の生産地も所有していたのだそうです。

■参考資料
Powered by Blogger.