行徳で塩業が始まったのは、結局のところ、室町時代の末期ということだろうか その2

 『行徳の塩づくり』(市立市川博物館)は1983年に発行されています。この本に「歴史上に、行徳塩づくりの様子が散見するのは、今から五〇〇年程前です」という記載がありました。1983年から500年を引くと、1483年。
 また、戦国大名の北条氏(後北条氏)が、小田原城を本拠に南関東を支配し、塩の生産地も所有していたのだそうです。

 そのようなわけで、製塩が始まる1483年頃の行徳について調べようと思ったところ、とんでもなく長い話になりました。


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 皇族が身分を離れ、姓を与えられて臣下になることを「臣籍降下」といいます(現在では「皇籍離脱」)。理由はネット上にいろいろと挙げられていますが、最も多いのは「皇室の維持に費用がかかり過ぎるから」ということでした。

 781年に即位した、50代目の天皇である桓武(かんむ)天皇は、794年に平安京に都を移したことで知られています。
 桓武天皇は、皇子を臣籍降下して「平(たいら)」姓を与えました。
 平高望(たいらのたかもち)、またの名を高望王は、桓武天皇の曾孫です。889年)に平姓を与えられ、臣籍降下となりました。これが桓武平氏のルーツです。

 高望王は、上総国(今の千葉県中部)の国司の次官である上総介として、この地に移り住んで地方豪族になり、私営田の開発を進めました。
 なお、平氏には、仁明(にんみょう)平氏、文徳(もんとく)平氏、光孝(こうこう)平氏があり、いずれも臣籍降下によるものです。

 桓武平氏の流れで、975年に平忠常が誕生しました。平忠常の乱とは、平忠常が1028年に安房国司を焼き殺してから、上総国の国衙を占領し、後任の安房の国司を追放して、1031年に降伏するまでの間を指しています。

 平忠常の子孫は、上総国と下総国に勢力を拡大し、「両総平氏」となります。両総平氏には、以下の氏族があります。
○大椎氏(千葉市緑区大椎町)
○上総氏(千葉県の中部一帯)
○千田氏(千葉県多古町)
○大須賀氏(千葉県成田市)
○海上氏(銚子市)

 市川市が見当たりません……

 さておき、大椎氏の流れをくむ大椎常重(つねしげ)は、1126年に大椎から千葉に移住し、千葉介常重と名乗るようになりました。

 ちなみに、「千葉」という地名の由来は「多くの葉が生い茂った状態」で、『万葉集』の中に、下総国千葉郡の大田部足人(おおたべのたりひと)が755年に詠んだ歌の冒頭に「知波乃奴乃(千葉の野の)」と記されているとのこと。
千葉氏系図(千葉氏ポータルサイトより)



 千葉介常重の子の千葉常胤(つねたね)は、いろいろな政治的駆け引きの中で、源義朝(よしとも)と主従関係を結びます。
千葉常胤の像(Wikipedia 1688より)


 1159年の平治の乱で源義朝が平清盛に敗れ、1180年には源義朝の子である頼朝(よりとも)が伊豆で挙兵しました。平家方との戦いである石橋山の戦いに敗れて、源頼朝が房総に逃れてくると、千葉常胤がかくまいました。
 その後、千葉常胤が後押しをした源頼朝は、2万の兵を連れて房総から陸路で鎌倉へと向かい、1184年の一ノ谷の戦い、1185年の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで、平家を滅亡させました。

 こうした経緯で、千葉常胤は下総国・上総国だけでなく、東北地方、九州地方などの所領を獲得しました。
 獲得した所領は、常胤の6人の子、胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)が分割して受け継ぎました。

 1336年に室町時代となりました。関東10カ国と東北地方を支配する鎌倉府で、鎌倉公方の足利氏と関東管領の上杉氏の間に内紛が生じました。この対立で、千葉氏が分裂したのです。


 1454年に鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が、関東管領の上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺したことから、享徳(きょうとく)の乱が始まります。
 室町幕府は上杉氏を支援することになり、足利成氏は朝敵となりました。足利成氏は鎌倉を放棄し、1457年に下総古河(こが、現在の茨城県古河市)を本拠地としたことから古河公方と呼ばれるようになりました。
 享徳の乱で鎌倉府は消滅。鎌倉公方を後継するような形で古河公方は、関東管領と関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)が1570年代まで続きました。

 話は戻って1455年、鎌倉公方派で千葉一族である馬加康胤(まくわりやすたね)や原胤房(たねふさ)は、関東管領派の千葉介胤直(たねなお)の居城である千葉城を攻めました。この戦いで千葉城は陥落し、胤直一族は滅ぼされました。

 これに対し、防衛の拠点として、1457年、関東管領派の太田道灌は武蔵の国の領主である江戸氏の領地に城を建てました。これが最初の江戸城です。

 1467年には応仁の乱が起こり、京都が焼け、室町幕府の力は弱まりました。
 そんな中、室町幕府は武蔵千葉氏の千葉自胤(よりたね/これたね)を千葉氏当主ということにして、太田道灌は下総国に軍を進め、1478年に国府台に仮陣を築き、同年に千葉孝胤(のりたね)の軍を破りました。翌年には、下総国と上総国は太田道灌らに制圧されました。

 ただ、千葉孝胤による千葉領支配体制ができてしまっていて、武蔵千葉氏のためにこの地に基盤がなかった千葉自胤は撤退することになります。

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 いろいろな千葉氏があってゴチャゴチャしますが、北条氏(後北条氏、鎌倉幕府で執権職を独占した北条氏とは別)は「不明」が多い模様。
 
 ウィキペディアを見ると、室町幕府の政所執事を務めた、備中荏原庄(現在の岡山県井原市)の伊勢氏がルーツということになっているようです。北条氏の初代は、1432年生まれの北条早雲で、本名は伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)。1487年以降は駿河(静岡県)の大名今川氏に仕えていて、1495年に相模小田原(現在の神奈川県小田原市)へ進出したとのこと。
 そのため、行徳で製塩が始まった1483年前後には、北条早雲は現在の岡山県か京都府(室町幕府)にいたと考えられます。

 以上のことから、北条氏(後北条氏)が台頭する前の行徳は、千葉氏の下だったのでしょう。
 ただ、ここまでたどってくると、1483年前後の行徳は周辺地域で戦いが多すぎて、個人で塩を作っているのならともかく、産業としての製塩をやっているどころではなかった可能性もあります。
 1538年に勃発した、北条氏綱(北条早雲の子どもで、北条氏の2代目)と、足利義明(古河公方の分家の小弓公方)・里見義堯連合軍が戦った第1次国府台合戦の後が、本格的な塩業の始まりかもしれません。

■主な参考資料

小田原城

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