「お地蔵さんに手を合わせてはいけない理由」は果たしてあるのか問題
X(旧Twitter)のタイムラインで流れてきた、「バカじゃねーの」というゲッター・ショーン氏の投稿。
マイナビウーマンに掲載されていた、以下の記事に関するもので、ちょっと話題になっていました。
何気に『クラナリ』は、お地蔵様の記事を掲載しています。
それだけに、「お地蔵さんに手を合わせてはいけない理由」なんて書かれてしまうと、検討せざるを得ないでしょう。
ちなみに、マイナビウーマンを運営するマイナビは、1973年8月に設立された株式会社毎日コミュニケーションズが前身とのこと。「毎日」なだけに、毎日新聞社との関係が創業時から現在まで続いているようです。
2024 年4月現在の従業員数約8,300名 。グループ全体従業員数は約14,300 名。
『クラナリ』なんぞ足元にも及ばない大企業が運営する情報サイトですが、お地蔵様のことは黙っちゃおられんのですよ。
マイナビウーマンの記事では、「お地蔵さんに手を合わせてはいけない理由」として以下が挙げられていました。太字は、『クラナリ』編集人によるものです。
主に供養のために設置されたお地蔵さんには、故人のみならず、悪い霊たちも助けを求めて集まっているといわれています。
お墓のそばにあるお地蔵さんも、道端にあるものと同じで手を合わせてはいけないといえます。特に、供養されているのが誰か分からないようなお地蔵さんは手を合わさないのが無難です。
赤いよだれかけや頭巾を身につけているお地蔵さんも、安易な気持ちで手を合わせるのは避けたいもの。そもそも子どもの姿をしたお地蔵さんは、幼くして亡くなった子どもと深い関係にあるのです。母親が藁にも縋る思いで置いたかもしれないお地蔵さんには、やはり生半可な気持ちで手を合わせることはおすすめしません。
要は「悪い霊がついちゃう可能性もありますよ」ということかと。
お地蔵様がどのような存在なのかは、マイナビウーマンの記事でも紹介されているので割愛しますが、『クラナリ』が調べた範囲では「お地蔵様は人々の身代わりとなって苦しみから救済してくれる」存在ということになります。
お地蔵さまは地獄に落ちた人々までも救済する菩薩なので、悪い霊でもすでに救済されているんじゃないのでしょうかね。善人だろうが悪人だろうが、善霊だろうが悪霊だろうが、分け隔てなく救済される気がしますが、どうなんでしょうかね。
では、手を合わせる「合掌」という行為は、どんな意味があるのかを検討しましょう。
株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版では、次のように説明されています。
合掌 (がっしょう)左右の手のひらを胸または顔の前で合わせること。仏や菩薩などを礼拝するときの作法であるが,仏教徒の間では日常の挨拶にも用いられる。サンスクリットのアンジャリañjaliの訳。合掌は古くからインドで行われていた敬礼(きようらい)作法の一種で,それが仏教にも取り入れられたものである。インド人は,右手は清浄,左手は不浄を表すとみて,これら両手を使い分ける習慣があるが,仏教でも右手を仏,左手は衆生(しゆじよう)を表すものとして,これらを合わせたところを,仏と衆生が合体した姿,すなわち成仏の相(そう)を表すものと考える。密教ではさらに左右の手と指にそれぞれ特別の意義と名称を与え,これらの合わせ方によって12の型を区別する。これを〈十二合掌〉といい,〈六種拳〉とともに印相(いんぞう)の基本をなすものとされる。十二合掌とは,(1)堅実心,(2)虚心(こしん)(空心),(3)未敷蓮華(みふれんげ),(4)初割蓮,(5)顕露,(6)持水,(7)帰命(きみよう)(金剛),(8)反叉(ほんさ),(9)反背互相著(ほんぱいごそうぢやく),(10)横拄指(おうちゆうし),(11)覆手向下,(12)覆手,の各合掌のことであるが,そのうちでも特に基本となるのは,両手と指をぴったり合わせる(1)の堅実心合掌と,両手の掌(たなごころ)を合わせ,右が上になるように十指の頭を交差させる(7)の帰命(金剛)合掌である。執筆者:岩松 浅夫
合掌といえば、手を合わせて「ナマステ~」と挨拶しているインドでの様子、また、ほほえみながら手を合わせて「サワディカップ」「サワディカ~」と挨拶しているタイでの様子を見たことがあります。あくまでもテレビ番組で見た範囲ですが。
古くからインドで挨拶するときの作法が合掌で、それが仏教に取り入れられてアジアに広く広まったわけです。
お地蔵様に手を合わせるというのは、お地蔵さんに挨拶をするということ。挨拶は礼儀なのに、どうしてやっちゃいけないのでしょうね。
マイナビウーマンの記事には、拝み方も紹介されていました。
手を合わせてもいいお地蔵さんの拝み方は、特に決まっていません。手を合わせて目をつむり、故人を供養する気持ちを伝えましょう。
ただし、本堂の奥にいるお地蔵さんなら、二礼二拍手一礼など、その神社・お寺の作法にのっとってお参りする必要があります。
おそらく、神社の本堂にはお地蔵様は安置されていないでしょうね。明治の神仏分離の影響で。ですから、神社参拝の「二礼二拍手一礼」などを行う機会はなさそうです。
ただ、神社の境内にはお地蔵様がかなり安置されています。これは江戸時代の石工ブームが関係しています。
江戸時代には、神社の狛犬や、道祖神などの石仏、そしてお地蔵様がたくさん作られました。それが後世になって道路を整備する際に移動させることになり、神社の境内にも置かれるようになったと推測しています。
お地蔵様については供養のために建立されるケースが多いものの、現在の交通標識の「危険」「注意」と同様に広く注意を呼び掛けられるために、また安全を願って建立されたケースもありそうです。少なくとも、とげぬき地蔵、いぼとり地蔵、延命地蔵、咳止め地蔵、厄除け地蔵、化粧地蔵、塩地蔵、とうがらし地蔵は、その名前から、供養のためとは思えないのですが。
マイナビウーマンの記事の冒頭では、次のように書かれていました。
お地蔵さんの意味や役割が分からず、何も考えず手を合わせてしまうこともあるのではないでしょうか。
何か考えちゃって挨拶しない(手を合わせない)よりも、何も考えずに挨拶する(手を合わせた)ほうが、礼儀にかなっていませんかね。知らない人からでも「こんにちは」と笑顔を向けられるのは、気持ちのよいものです。
今回のマイナビウーマンの記事を書いた人は誰なのか、どんな目的があったのかはわかりませんが。
『宗教の起源』(著/ロビン・ダンバー 白揚社)の視点で考えれば、お地蔵様に手を合わせる行為は、満足感と幸福感を強め、健康につながるかもしれません。
私たちだって、いつ、どんな形で死を迎えるのかはわかりません。命、そしてこの世界は、不安定なもの。
にもかかわらず、「生きるのも死ぬのも自己責任」というのが今の風潮です。
自己責任。
しんどいですよね。自分だけががんばったところで、生老病死はいかんともしがたいのに……
それが、お地蔵様に手を合わせ、救いを求めることで、いくばくか、その不安定さと自己責任のストレスが和らぐのではないでしょうか。
私たちの祖先もそうやって、なんとか暮らしてきたと思うのです。
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