市川 芸妓ものがたり 2 ~料亭「鴻月」のその後を訪ねる
時代とともに街だけでなく、人々の暮らしと生業も変わっていくのでしょうね。
今から85年前の1935年(昭和10年)頃 、帆船で江戸川を渡っていたようです(「市川市絵はがき」市川市役所 船橋市西図書館/船橋市デジタルミュージアム蔵 )。
「國府臺と江戸川の清流」 |
「國府臺と江戸川の清流」というタイトルがついていることから、バックにある小高い丘は、今の里見公園。そしてこの船は、「栗市渡(栗市〈くりいち〉の渡し)」だと推測できます。栗市渡は1894年(明治27年)に設けられたのだそうです(栗市渡については、『目で見る市川の100年』だと明治12年、市川市教育委員会が制作した『市川』だと明治25、26年頃に設けられたとなっています)。
1896~1909年頃の地図 今昔マップより |
市川 芸妓ものがたり で紹介した鴻月は、里見公園のすぐそばの江戸川べりにあったそうです。だとしたら、今の里見公園駐車場の近くに、鴻月のあった可能性があります。
鴻月は1976年(昭和51年)まで存在した割烹旅館で、芸妓もそこでの宴席に呼ばれていたようです。
『目で見る市川の100年』(郷土出版社)より |
右側の木々が里見公園で写真の奥に駐車場があります |
駐車場 |
松井天山の「千葉縣市川町鳥瞰」にも、鴻月の名が記されています。この鳥観図が描かれた1928年(昭和3年)頃は、「モボ・モガ」が流行したといいます(モボはモダンボーイ、モガはモダンガールの略)。
Wikipediaより |
1914~1918年(大正3~7年)の第一次世界大戦で、日本は一気に景気がよくなり、成金が生まれたと教科書で習いました。
教科書に載っていた成金と芸妓の絵 |
『千葉県市川町鳥瞰』にも、たくさんの料亭や商店が描かれています。きっと市川も景気がよかったのでしょう。
「鳥瞰図から読み解く市川」(三井住友トラスト不動産)より抜粋 |
東京から市川には、多くのレジャー客がやってきたそうです。小岩側から栗市渡を使って、船でやってきて、今の里見公園駐車場辺りで降りたのでしょう。
里見公園駐車場 |
里見公園駐車場の近くには、里見公園に続く、急な階段があります。
階段を下から見たところ |
階段を上から見たところ。き、危険 |
おそらく、この階段は古くから存在していたのでしょう。近年では、急で危険な階段を、公共の場所に設置しないからです。
栗市渡を使って船で市川にやってきたレジャー客は、この階段を使って里見八景園※に向かったと推測しています。
戦争や景気の急激な変動などに、先人たちは翻弄されてきたわけです。「たくましく、したたかに暮らし、働き、人間は時代を生き抜いてきたのだなあ」と、古い写真と今の風景を見比べながら、つい思ってしまいます。
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