市川 芸妓ものがたり 1
時代とともに様変わりするJR市川駅周辺。
『写真で見る わがまち市川』(郷土出版社)より |
国府台の土地が1884年(明治17年)に陸軍省に移管されて、陸軍教導団※ができ、その後、旅団司令部、野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊などが駐屯したとのこと。
※明治期の陸軍の下士官を養成する機関
そのおかげで、近隣にある根本などの商店が栄えたそうです。
同時に、軍人を接待するような料亭などもできて、花街が生まれたと考えられます。
料理屋(料亭)・待合茶屋・置屋(芸者屋)がまとめて「三業」と呼ばれていたためため、花街には「三業地」という別名もあったとのこと。なお、待合茶屋・置屋で「二業」なのだそうです。
これらの店主は組合を作ったようで、1921年(大正 10年)には国府台に市川三業組合(国府台三業組合)が、1927年(昭和2年)には市川真間に真間組合ができたとのことです。
「鳥瞰図から読み解く市川」(三井住友トラスト不動産)より抜粋 |
上の絵は、1928年(昭和3年)に松井天山という絵師が発表した「千葉縣市川町鳥瞰」です。
芸妓についての資料は市川市のものは見つからなかったのですが、以下のツイートがありました。
https://twitter.com/oldpicture1900/status/1327813789866098690 |
宴席に芸妓を呼ぶのは極めて一般的なことだったそうで、料亭がある地域には自然と芸妓も集まってきたのかもしれません。
軍隊の街であり、花街でもあった市川。街の様子を変化させたのは、戦争です。
日本は1941年(昭和16年)に太平洋戦争を開戦。
「市川の特産品だった梨や桃の木は切られ麦やジャガイモが植えられた。また明治三十五年から栽培され、東京市場の一割以上を占めていた市川のイチゴ畑は水田となり、市川の果物は完全に中断されていた」と、『写真で見る わがまち市川』の113ページに記載されています。
さらに、戦後の1947年(昭和22年)。深刻な食糧難だったために、飲食営業を禁止する「飲食営業緊急措置令」がGHQによって施行されました。そんな中で料理屋・待合茶屋・置屋を継続させるのは困難だったに違いありません。
とはいえ、それで芸妓が市川から消えたわけではなさそうです。
1952年(昭和27年)頃に市川二業芸能部が「市川音頭」を作詞したという資料が出てきました。ちなみに「作曲:藤本お喜多、振付:藤間幸寿」ということで、2人の名前から芸妓の可能性があります。
1986年(昭和60年)年に「名妓の碑」が、浮島弁財天の境内に建立された際に、約20名の芸妓が参列したという記録がありました。
「名妓の碑」の建立については、「市川の花柳界を支えてきた名妓たちに思いを馳せ、沈滞気味な花柳界にスポットを当てて、妓芸を通じて地方文化の発展につなげたい」という趣旨があったようです。この碑には、 24 名の芸妓の名前が彫られています。
名妓の碑を建立した蓜島正次(はいじままさつぐ)さんについて調べたところ、1922年(大正11年)生まれで、市川市名誉市民であり元東京ベイ信用金庫会長とのこと。東京ベイ信用金庫は、1928年(昭和3年)に設立。
市川市ホームページより |
蓜島正次さんの父親が、今は里見公園になっている「里見八景園※」の創設者の一人とのこと。里見八景園の事業の一環で、江戸川べりにあった「鴻月(こうげつ)」という、川魚(鯉や鰻など)料理を提供する割烹旅館を経営し、渡し船など遊船業も行っていたそうです。鴻月は市川三業組合に参加していました。
※1922~23年(大正11~12年)頃~1933年(昭和8年)頃にあった遊園地
鴻月については蓜島正次さんの母親と妻が経営し、蓜島正次さんは元東京ベイ信用金庫会長とのことなので、金融業に携わっていたのでしょうか。鴻月に仕事に来ていた芸妓のことを思って、蓜島正次さんは名妓の碑を建立したと考えられます。
また、JR市川駅の北側にある八幡神社の玉垣(周囲を囲っている垣)には、「市川二業組合」と刻まれているものもあり、寄進したと思われます。八幡神社の創建については改めて調べますが、1927年にできた真間組合と市川二業組合には、どのような関連があるのでしょうか。
八幡神社 |
玉垣に「市川二業組合」 |
市川二業組合検番(事務所)の建物が、京成本線の踏切のすぐ北に、2010年(平成22年)まで存在したというネット情報を見つけました。
→修正
手児奈通りと京成線が交差する踏切の近くに、なんとも古い地図看板を発見。そこには「市川二業組合」と記されています。
この地図看板で市川二業組合の場所が違っていることに気づいたので、訂正します。
地図看板 |
市川二業組合があった場所(今は駐車場) |
市川の街に芸妓は、十数年前までいたのでしょうね。
料亭については、今もいくつか残っています。
LIFULL HOME'S PRESS【市川】「東の鎌倉」国府台、菅野には自然と文化と歴史が溢れていた。
このまちアーカイブス 千葉県 市川・浦安
ぼくの近代建築コレクション
市川市中央図書館 新・参考業務月報
https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000113917.pdf
市川よみうりONLINE 2012年10月6日土曜日
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