4000年も前から人々にとって暮らしやすい場所だった市川
弘法寺古墳 |
関東で一番古墳の数が多いのは千葉県のようです(全国では4位)。
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全国各地の古墳の数(平成28年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数より抜粋) |
古墳とは、3~7世紀にかけて作られたお墓で、土を高く盛った形をしています(墳墓)。
王や首長など地域の偉い人が亡くなった後、その人をしのんで作られたのかもしれません。あるいは、自分が亡くなる前に、周囲の人間に命令して作らせた可能性も高いでしょう。
現在での銅像のような意味があったと思われます。
ただ、過去に盗掘や道路・住宅造成工事などで壊されてしまったり、深く埋もれてしまったままだったりして、カウントされていない古墳もたくさんあるでしょう。現在のデータばかりを重視すると、大きな誤解を発生させてしまいます。
それでも「千葉県に古墳が多い」というのは揺らぎのないことだと思われます。下総台地は人間にとって住みやすく、縄文時代には湾(奥東京湾)の内部だったので安全に貝や魚がとれたからです。
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縄文時代の海岸線と作られた貝塚(出典がわからないので、教えてください!) |
上の図で見ると市川には貝塚が大量にあり、古墳も残っているので、4000年前の縄文時代からずっと暮らしやすい場所だったと考えられます。
大和朝廷が国府を市川に置いたのも、多くの人々が生活している場所であるとともに、交通の要所だったからでしょう。戦国時代に北条氏と里見氏が市川で戦ったのも、やはり要所だったからこそ。
余談ですが、ごくまれに「古戦場は不吉」などと言いだす人がいますが、単なるイメージで何の根拠もありません。むしろ「古戦場は争奪戦が行われたほど、私たちの祖先にとって大切だった場所」と考えたいところです。
古墳があるということは1700年前の人々にとって、市川は暮らしやすくて便利なだけでなく、大切な場所だったに違いありません。
人々の生活様式も地形も大きく変化しましたが、古墳の木々は1700年前と同じ種類なのでしょうか。
これも余談ですが、ゲノム解析から、弥生時代(日本で水田稲作が始まった時期)の開始期が弥生時代の開始期が500年ほど古くなり、紀元前10世紀だったのではないかと考えられています。古い教科書の知識に頼るのではなく、アップデートが必要ですね。
○参考資料
埋蔵文化財関係統計資料―平成28年度― (文化庁文化財部記念物課)
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/h29_03_maizotokei.pdf
『新版 日本人になった祖先たち』(著/篠田健一 NHK出版)
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