縄文時代の海岸線と貝塚。地図の出所を求めて……その2 東木龍七氏の「地形と貝塚分布より見たる關東低地の舊海岸線」
出所のわからない地図を以下の記事に掲載したのが、2020年1月9日。
○4000年も前から人々にとって暮らしやすい場所だった市川
そして、「これに違いない!」という、元データを見つけることができました。1926(大正15)年に発表された東木龍七(とうき・りゅうしち)氏の「地形と貝塚分布より見たる關東低地の舊海岸線(旧海岸線)」 です。
カラーの地図は、以下にアップされています。一見の価値あり!
日本の考古学は、1877(明治10)年に来日した、アメリカの動物学者であるエドワード・シルヴェスター・モースによって始まったとされています。モースは大森貝塚の発掘調査を行いました。
そして1876(明治9)年に来日したイギリスの地質学者のジョン・ミルンは、大森貝塚の崖の下まで海だったのは、3000年前と推定しています。
エドワード・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の大森貝塚を発掘し、明治12年に英文『大森貝塚』と邦文『大森介墟編』の2論文を東京大学理学部の最初の紀要に発表しているが、日本考古学界で初めての学術報告書といわれている。この2人の研究を読み比べると、ミルンは大森貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、大森貝塚人のように土器を作った人種をアイヌ民族以前のものであると考えた。更に人骨が野猪や鹿の骨に混っていたことから、日本古代人に食人の風習があると述べ、当時の日本人に大きな衝撃を与える結果となった。
その後、関東地方の貝塚を調査して、縄文時代の海岸線を推定したのが東木氏でした。
関東地方の貝塚を「巡検」という地道な調査方法によって詳しく調べ、貝塚の存在地点を地図上にプロットし、これを繋いだ複雑な地形分布曲線を描き出しました。そして、この貝塚分布曲線は、当時の海岸線と平行しているに違いない、と考察し、その結果、大胆にも「縄文海進」と呼ばれる過去の海岸線を浮き彫りにしました。今から6千年~7千年前の縄文時代、海面は現在より5~7m高かった、というのです。そうでなければ広範囲に広がる貝塚分布の理由を説明できない、と結論しました。この説は支持され、今では定説となっています。
「巡検」とは実地調査のことで、下総台地などを東木氏は歩いて貝塚を見て回り、冒頭の地図を手で描いたのです。
縄文海進(かいしん)という言葉は、東木氏の研究から派生してきたという話もありました。「海進」は地質学用語で、海水準の上昇や陸地の沈降によって海岸線が内陸側へ移動し、それまで陸地だった場所が海に沈む現象です。それが「縄文」という時代の区分と結びついて、縄文海進という言葉が生まれたのです。
■主な参考資料
篤学の士 東木龍七の貝塚の配置による地形変化の解明から独自の地誌学提唱まで
地形と貝塚分布より見たる關東低地の舊海岸線
7.縄文海進の研究史
縄文海進 - apedia
関東平野の台地の緑に、先史時代の貝塚で海生の貝類を含むものが多数分布することから、東木龍七はかつて関東平野の奥の台地の緑まで海におおわれていたと考え、地形的考察を加えて、先史時代の海岸線を引いた。その後縄文時代の時代区分が進んで、貝塚の年代が詳しくわかるようになり、海水浸入の時代とその推移が考古学的に明らかになってきたので、この海進を縄文海進と呼ぶようになった。
縄文海進とハイドロアイソスタシー

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