【 月梅(ゆーめい)ZINE】 コンテンツ案3 第2章 戦後の闇市とそばと商店街

  1945(昭和20)年から1947(昭和22)年まで全国各所に闇市が立ちました(終戦から1週間後に新宿で発生した闇市が最初)。小岩駅の闇市からできた「小岩ベニスマーケット」と、“日本の上海”と呼ばれた船橋駅の巨大闇市の存在感が大きかったため、市川駅や本八幡駅の闇市は小規模だったと推測できます。
 なお、「小岩ベニスマーケット」の名前の由来は、水路の上にマーケット(長屋)ができたために、イタリアのベネチア(ベニス)のようだということでした。ベネチアに失礼な気もしますが。

小岩ベニスマーケット(出典:エコ地域デザイン研究所

 小岩駅・市川駅・本八幡駅に共通するのは、低地ということ。当時、おそらく駅前はぬかるみやすく、水路が張り巡らされていたのでしょう。この3駅の闇市は、水路の上にできました。
「八幡一番街」は終戦後、通り面の水路に橋のように板を渡し、自然発生的に店が出来ていったのが始まりです。(現在、暗渠になっているところがその名残です。)

 1946(昭和21)年8月1日に八・一粛正。GHQ(連合国軍総司令部)の指令に基づき、内務省主導で闇市の一斉取締り・閉鎖命令が実施しました。
誕生当初は路上取引をする露店として、地面の上に茣蓙を敷き、商品を売り出していた。そこから、焼け跡などに残された材料で建設される仮設の建築物であるバラック建築へと転じ、道路に連なるように作られていった。ヤミ市がなされる商業空間の形態は、区別する移動式の『露店』と固定した長屋形式で建築の体裁を整える『マーケット』に言い分けられている


RAKU18【特集】破壊と復興 戦後東京のヤミ市に見る市民の力
https://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/pdf/raku/RAKU18.pdf

 闇市は1949(昭和24)年頃には消えて、長屋形式のマーケットへと変わっていきました。水路はふたがされて暗渠となり、その上に道ができたと考えられます。
1969年撮影の本八幡駅前(出典:市川市文学ミュージアム データベース

 


 「名代ねぎそば 月梅」の開店は1953(昭和28)年で、そのときの店名は「中華定食 月梅(ゆえめい)飯店」でした。このように「月梅」の読みは「ゆえめい」でしたが、後に赤いテントに「ユーメイ」と記載されています。


出典:『市川の美味 : いちかわ周辺300味 なんでもいちかわ』1994(平成6)年


 店主の海老原政二さんは1932(昭和7)年あるいは1933(昭和8)年生まれで、1945(昭和20)年の第二次世界大戦終戦を中国で迎えました。当時は10代です。
 日本に引き揚げてきた海老原さんは、中国で食べた麵料理の味をもとに、湯麺(タンメン)を作り、本八幡駅の近くで月梅飯店を開店しました。

 「名代ねぎそば 月梅」の特徴の一つが、ラー油です。
出典:食べログ シチー氏2011(平成23)年

 今でこそ、中南米原産のトウガラシはポピュラーな食材ですが、世界に広まったのは15世紀末にコロンブスが西インド諸島からヨーロッパに持ち込んだ後です。

 中国では、トウガラシがあまり普及しませんでした。17~18世紀の料理書に、トウガラシの記載はないのだそうです。理由の一つとして、「トウガラシは毒だ」という偏見があったからだと推測されています。『トウガラシの世界史』(中公新書)の著者である山本紀夫博士は「四川でトウガラシがさかんに使われるようになったのは、せいぜい一〇〇年くらい前のことであると推定できる」と述べています。

 また「月梅」のウメは、中国の四川省・湖北省が原産のバラ科サクラ族の落葉高木です。四川料理店に「梅香」「蘭梅」などがあるのも、ウメが四川省と縁が深いからかもしれません。

 以上のようにラー油とウメから、ねぎそばのルーツは四川料理にあると考えられます。

 当初は15坪15席(カウンター席のみ)で、後に隣接した30坪36席(テーブル席16、カウンター席20)の新店舗ができました。

 本八幡駅前の長屋形式のマーケットは、やがて八幡一番街商店街へと変貌します。『市川市広域商業診断報告書』(市川市、市川商工会議所、千葉県 1967年)で「八幡一番街商店街」の記載はなく、「本八幡駅前会」の一部でした。

1967(昭和42)年頃は「本八幡駅前会」(出典:市川市広域商業診断報告書〈市川市、市川商工会議所、千葉県 1967年〉)


 1963(昭和38)年にショッピングセンター(ファイブビル)ができた後に商店街が発達し、1967(昭和42)~1973(昭和48)年に八幡一番街商店街が成立したと推測できます。


 ファイブビル
物件種別 マンション
築年月(築年数) 1963年6月 (築62年)
建物構造 RC(鉄筋コンクリート)
建物階数 地上8階


かつて「ショッピングセンタービル」があった場所


1973年撮影の本八幡駅前(市川市文学ミュージアム データベース


 「中華定食 月梅(ゆえめい)飯店」は、後に「名代ねぎそば 月梅(ゆーめい)」へと店名が変わります。1994(平成6)~2006(平成18)年のことで、店の赤いテントには「ユーメイ」と記載されていました。

〇ねぎそば月梅ユーメイ@本八幡(326杯目)


出典:食べログ シチー氏2011(平成23)年

 そして、なぜか「月」の1画目がはねています。
「名代ねぎそば 月梅」の看板に書かれた「月梅」の字体



 私事ですが子どもの頃に書道教室で、「漢字は縦棒を太く、横棒を細く書く」と指導されました。日本語フォントの明朝体も、縦棒が横棒よりも太くなっています。
 しかし看板の「月梅」は、横棒のほうがやや太くなっています。「月」の2画目が顕著です。

 食べログによると、2010(平成22)年までに店主の海老原さんが亡くなり、2011(平成23)年は海老原さんの妻が1人、あるいは息子と店を切り盛りし、2013(平成25)年に閉店。
 「名代ねぎそば 月梅」だった店舗は、別の飲食店が入っていますが、この地区の再開発で2028年頃には解体される予定です。
 


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【 月梅(ゆーめい)ZINE】  「名代ねぎそば 月梅」の看板で「月」の1画目がはねている件について

市川市における戦災の状況(千葉県)|総務省
 終戦後、市川市でも、物資不足など人々の生活は困窮し、総武線市川駅や本八幡駅の周りには闇市が立っていた。また、東京方面からの罹災者が市域へ流入し、市民の負担も増えていた。空襲による被害自体は軽微であったため、昭和9(1934)年の市制施行以来、都市計画法による法整備(用途地域・風致地区の指定や街路網・公園の決定)が進んでいたので、戦争によって途絶えていた都市計画の実現を進めることになる。戦前期策定された都市計画は、現在の市域の有様を規定したといえる。また、国府台の軍隊跡地は、東京都内からの大学の移転など文教地域として生まれ変わった。

本日(9/13)から館務実習生が担当した戦後80周年記念小展示『戦後を生きる-引揚と闇市の記憶-』を開催します
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