真間川は、いつから「真間川」と呼ばれるようになったのか問題 その1

 明治や大正を生きた人たちへのインタビューを読むと、昔は地域の川や山を適当に「大きいから大川」「小さいから小川」「形が三角だから三角山」などと呼んでいたことがわかります(「冨貴島」が気になります その2 川が先か、島が先か)。


 確かに、日常生活を送る上で、川や山に名前がなくても特段困りません。
 どういうときに必要になるかと考えたのですが、地図を作る場合ではないでしょうか。地図上に「大川」「小川」「三角山」という名称がびっしりと並んでいても、紛らわしいだけだからです。
 それで、地図を作るときに、地名やゆかりのある人名などから川や山に名前を付けたのだと推測します。


 その意味で真間川も、長い間、名前のない川だった可能性が高いといえます。
 それどころか、明治の初期までは「広大な水たまり」と認識され、川の存在に人々は気づいていなかったかもしれません。


 栃木県立博物館のデータにようると、江戸時代末期に製作されたとされている「江戸川縁領々地図」。この地図を見ると、真間川は「川」ではなく広大な水たまりのように描かれていました。
 また、さんずいに、畄(「ツ」と「田」)という漢字ですが、は「留」の簡易字体とのこと。ということは、「真間溜井」で、この表記から、ため池などのように灌漑用水をためておく場所だと書かれていると考えられます。

「江戸川縁領々地図」一部拡大野田市立図書館 電子資料室 所蔵絵図)

 明治元年に描かれた浮世絵「利根川東岸一覧」は、江戸川区側から江戸川を挟んで市川市を眺めた構図で、左側に国府台があります。
 ですから、中央の水色に塗られた部分、つまり水がかぶっているところが真間川に相当します。ただ、「江戸川縁領々地図」と同様に、川ではなく広大な水たまりです。




「利根川東岸一覧」(アデアックデジタルアーカイブより)

  自然博物館が作成した鳥瞰図と照らし合わせてみましょう。

市川自然博物館だより81号より

 上の図の白い部分が低地で、明治初期だとこの部分の多くが水の下、あるいは湿地だったと考えられます。地域の人たちも、わざわざ湿地に足を踏み入れることはなかったため、川の存在が知られていなかった可能性があるのです。

 適当に済ませられないのは、陸軍です。明治政府の陸軍卿だった山県有朋の指示によって、地形図の作成が本格的に始まったのは1880年(明治13年)です。「迅速測図(迅速図)」と呼ばれる地図が、その名のとおり、迅速に作られたとのこと。

 1903年(明治36年)に作図された地図だと、現在の流路と同じところを真間川が流れていて、その周囲に荒地と針葉樹林が広がっています。

今昔マップより(一部改変)

 真間川流域は、下の写真のような光景だったのでしょう。

https://www.gsi.go.jp/KIDS/map-sign-tizukigou-h10-02-07areti.htmより

 明治の陸軍の測量担当者は、グチョグチョの湿地帯に足を踏み入れ、川の存在を確認したのでしょう。そして「真間川」と名付けたものの、当時、その地域に住む人々にはまったくの無縁だったに違いありません。

 名前が知られるようになったのは、人口増加による住宅地の不足を補うため、湿地帯が埋め立てられたころだと考えられます。湿地帯の埋め立てが終わったのは、大正8年(1919年)のことでした。


※事実誤認がありましたら、ご連絡ください!!

○参考資料

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