「冨貴島」が気になります その2 川が先か、島が先か
人間の体のおよそ60~70%は水でできています。水がなければ、私たちは生きていけません。
その一方で、水は私たちの命を奪います。記憶に新しいのが、東日本大震災の津波。容赦なく人間をのみ込み、多くの命を奪いました。
水を供給しながらも、その力をコントロールすることが、私たち人間にとって長年の課題だったに違いありません。
飲んだり洗ったりといった生活用水に加え、作物を育てる農業用水としても必要だった水。
水を巡って、人々は一致団結してコミュニティをつくったり、上流と下流、右岸と左岸などコミュニティ同士で激しく争ったりしてきた歴史があります。
自分たちのコミュニティがある土地に水を引いてきた人工的な川(堀)に、昔の人々は特別な思い入れがあったのかもしれません。
そこで、「川が先か、島が先か」問題。冨貴島については、川が先だったのではないかと思い始めるようになりました。その根拠は、『内匠堀の昔と今』(市川博物館友の会歴史部会)にあります。
内匠堀とは、江戸時代初期の元和6年(1620年)に、狩野浄天(かのうじょうてん)と田中内匠(たなかたくみ)によって開削された水路。大柏川とつながっていて、八幡・行徳・南行徳を経て浦安にまで及んでいたということ。さらに内匠堀から、いくつもの水路が引かれていたようですね。
写真は、冬枯れの大柏川第一調節池緑地 |
『内匠堀の昔と今』p77より |
江戸時代後期の文化2年(1805年)に作られた『江戸御場絵図』中巻に「冨貴川(ふうきがわ)」が明記されていると、『内匠堀の昔と今』にあったのです。
冨貴川については、内匠堀からの分流とも考えられているようです(諸説あり)。
さらに文化7年(1810年)に作られた『葛飾誌略』にも、この川の名前が出ているのだそうです。『葛飾誌略』は、当時「葛飾」と呼ばれた市川市全体と、船橋市・鎌ヶ谷市の一部に関する見聞記のようなものです。
『葛飾誌略』は、「此用水川を斯く便利に開きしは」と喜びを表現している。『内匠堀の昔と今』より
「冨貴」というめでたい名前をつけたのは、川ができてうれしかったことが理由のようですね。
以上のことから、おそらく江戸時代に、今の鎌ヶ谷市から水を引いてきてできた冨貴川が先で、冨貴川が流れているところを「冨貴島」と呼ぶようになったと考えるほうが自然かもしれません。
『内匠堀の昔と今』には、古い写真や昔を知る人のインタビューが掲載されていて、実におもしろいです。
地元に住んでいる人にとって、冨貴川だろうがなんだろうが、川の名前はどうでもよかったようです。「川に勝手に名前を付けちゃって」と明治40年生まれの川上勝雄さんは語っていました。
そして川で舟を使って肥料などを運んでいたそうです。
昭和30年(1955年)頃までは市川には水田風景が残っていたようですが、急激に都市化が進み、公害なども発生して、川は埋め立てられたり暗渠になったりして、現在に至るのでしょうね。
都市化は人口増と関係しているわけですが、2011年から日本は人口減少が始まりました。31年後の2050年には総人口が9515万人になると総務省が予測していて、昭和35年(1960年) の9342万人に近い数字になっています(昭和35年国勢調査https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001036867&cycle=0&tclass1=000001037497&second2=1)。
その頃に市川の風景はどのように変わっているのでしょうか。
もしかしたら、水田や川が見られるのかもしれません。
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