「真間の手児奈」伝説の知られざる真実とは?

  2021年6月27日18:30放送予定の、テレビ東京「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦スペシャル」に、手児奈霊神堂の池が登場するのではないかと、ツイッターでは一部ざわついています(放送日時がはっきりしたら、『クラナリ』でも告知します)。

→放送日時が決定したようです。やはり、2021年6月27日18:30放送予定です。
https://tv.yahoo.co.jp/program/87397603



 手児奈霊神堂に祀られている「手児奈」は、『万葉集』に登場する美女で、真間の入り江に身を投げて亡くなったと伝えられる伝説のヒロイン。

市川市のサイトより


 しかし。

 『クラナリ』ではこれまでに2回にわたって、この「真間の手児奈」伝説には隠された真実があるのではないかと言及してきました。

■勝手にパワースポットその5 手児奈霊神堂の池
https://life-livelihood.blogspot.com/2017/09/5.html
■勝手にパワースポットその5 手児奈霊神堂の池 続編「国府を巡る惨劇」
https://life-livelihood.blogspot.com/2021/06/5_19.html
→和洋女子大学教授だった今井福治郎博士(文学)の説を紹介


 そして今回は3回目。さらに掘り下げて考えていきます。


 まず、「真間の手児奈」伝説の時代背景を調べてみました。

 今からおよそ1500年前の話になります。我々の世代では「大化の改新」がおなじみですが、改新の詔が646年に出されます。その目的は、天皇中心の中央集権国家建設。

 それ以前は、地域にいる豪族が土地や人民を所有・支配していました。この私的な所有を認めずに、中央の政権のものにしようとしたわけです。そのために、日本全体を「国(令制国)」に分け、国ごとに役所である「国府」を置くことにしました。

 市川市は「下総国」に含まれていました。

葛飾区史より


 昔は電車や車はなかったので、国府を同時期に、一斉に置くことはできなかったと推測します。ですから、ウィキペディアなどでは奈良時代から国府が置かれるようになったと説明されていますが、もっと早くから置かれていた地域もあるのではないでしょうか。

 それに国についても、豪族などの勢力争いもあって、境界もなかなか定まらなかったと思われます。

 そんなゴタゴタと大いに関係すると考えられるのが、「真間の手児奈」伝説。
 真間は、国府が置かれた国府台の横の地域で、縄文時代は海の底だったと考えられます。

縄文時代の海岸線と貝塚
市川市のほとんどが水浸し

 明治元年に描かれた浮世絵「利根川東岸一覧」を見ると、真間川の周囲は水浸しだったことがわかります。

利根川東岸一覧

手児奈霊神堂の南側は水の底


 国府台は、東京湾内にあり、穏やかな海に面した地域。ですから、旧石器時代から人類が住んでいたようです。たくさんの遺跡が発掘されています。

 国府台に住んでいる人々にとって、ここは先祖代々の地。そして偉大なる先人の墓(古墳)もある聖地。
 一方、中央政権にとっては、便利な場所。

常総市/デジタルミュージアム 石下町史より
 国府台へは東京湾から太日川(今の江戸川)を上っていけるだけでなく、市川砂州も近いので、水陸両面で交通の便がよかったのです。

 そもそも、地元の豪族たちにしてみれば、先祖代々の土地を中央政権に取り上げられるようなもの。強く反発した豪族もいたのではないでしょうか。
 今の時代でも「由緒ある神社と寺のある場所に役所を建てる」「先祖代々の墓がある場所に役所を建てる」となると、問題が発生しますよね。当時の人々は、私たち以上に霊魂に対する畏怖や尊敬の念が強かったため、抵抗感も大きかったと考えられます。
 その一方で、中央政権と深く結びついて他の豪族を圧倒するために、むしろ歓迎した豪族もいたはずです。
 さらには、彼らの板挟みになった豪族もいたでしょう。
 
 そんな不安定な政情の中に「真間の手児奈」は存在していたと推測できます。
 手児奈の死を悼んで行基(仏教僧)が求法寺(今の弘法寺)を建立したのは、737年のこと。

 行基は民衆を助け、人気もあったことから、中央政権に弾圧されていたとのこと。

行基は、寺院から外へ出て、民衆に対する布教を積極的に行っていきました。また、貧しい人々に宿泊と食糧を提供するための布施屋を建設したり、橋や道路、新田開発などの土木工事にも携わりました。

奈良偉人伝より 

 そんな行基が、「求法」と名付けた寺を建立したのですから、貧しい人々と「真間の手児奈」は関連があると考えられるのです。

古に 在りけむ人の しつはたの 帯解き交へて 伏屋立て 妻問しけむ 葛飾の 真間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らえなくに 
(万葉集 巻の三・431) 山部赤人

葛飾の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ  手児奈し思ほふ
(万葉集 巻の九・1808)高橋虫麻呂
 山部赤人は736年まで生きたとされているようです(高橋虫麻呂については不明)。「真間の手児奈」は遅くても736年には亡くなっていたのです。
 
 中央集権国家建設のために、先祖代々の土地から追放されたり、だまされたり、利用されたり、犠牲になった人々である「真間の手児奈」を悲しみ、しかし、中央政権にはにらまれないように、「奪われた人々」を「美しい女性」になぞらえて歌人たちは歌を詠んだとも考えられますね。

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