勝手にパワースポットその5 手児奈霊神堂の池 続編「国府を巡る惨劇」


 「勝手にパワースポットその5 手児奈霊神堂の池」 では、「手児奈の伝説には納得いかないなあ」という勝手な考えを述べたました。

 そんな『クラナリ』よりもはるか前に、手児奈の伝説の背景について、「手児奈は色恋ざたで自殺した悲劇の美女ではない」と分析をした人がいました。

 それが歌人で国文学者の、今井福治郎博士(文学)です。今井博士は和洋女子大学教授だった人で、1968年に亡くなっています。ですから、ローカルメディア『クラナリ』など足元にも及ばない存在なのですが、同じような説を唱えていたとのこと。
 『クラナリ』の場合は、「民衆のために働いている行基が、男女のいざこざで亡くなった美女のためにわざわざ寺を建てないだろう」という文脈でした。

 今回は、『東国の歩みから幻の国府を掘る』(編/寺村光晴・早川泉・駒見和夫 雄山閣)に書かれている、今井博士の説などを紹介します。


 まず、手児奈については、江戸時代から18世紀までの間に、以下の説が出てきたそうです。
●国造の娘
●継子
●巫女
●機織り集団の娘

 759年から780年までの間、つまり奈良時代に成立したとされている『万葉集』に収載された「真間手児奈(ままのてこな)」の歌。手児奈の伝説は、それから約800年後の江戸時代の人々があれこれ想像した「後世の創作」ともいえそうです。いい加減といえば、いい加減……


 では改めて、手児奈伝説について、時代背景から考えてみましょう。

 手児奈霊神堂がある真間は、国府台の横の地域です。そして国府台という地名は、「国府」が置かれていたことに由来します。

グーグルマップより

 国府は、中央政府が、地方の行政区分(今の「県」に当たる)である「国」を治めるための役所です。国や国府がいつ成立したのかは、諸説あるようです(古墳時代という説も)。

 今の国府台に国府が置かれることになった時代には、すでにこの地に人々が集団で住んでいて、「豪族」と呼ばれる支配者もいたと考えられています。

 そんな地域に、中央の政府が役所を置くので、地元の人々の反応には次の3パターンが考えられるのです。
1 「ようこそ!」と素直に受け入れた
2 「ぜひ来てください!」と誘致した
3 「げっ、なんで来るんだ」と嫌がった

 もちろん、地域の人々が一枚岩というわけでもなく、積極的に呼び込む派もいれば、何とか別の地域に追いやろうとする派もいたでしょう。今でも、似たようなゴタゴタはありますよね。

 ここで、『万葉集』で読まれた「真間手児奈」の歌の分析(おそらく今井博士による)に話を戻すと、「鎮魂ということを強く意識した挽歌」なのだそうです。鎮魂ですから、亡くなった人の魂を鎮め、慰めるために、万葉の歌人たちは歌を詠んだというわけです。

 そして今井博士によれば、鎮魂の対象である手児奈は、特定の人を指す固有名詞ではないとのこと。手児奈は普通名詞、例えば「お嬢さん」などと同様の名詞なのです。


 国府台には、いくつか古墳があります。つまりは、地域の人々にとっての、偉大な先人の墓(古墳)がある聖地。「そんな聖地に国府を作るなんて、中央政府は何を考えているんだ!!」という反発があったのではないかと推測できます。

 しかし、江戸川(当時は太日川)と市川砂州の近くで、水陸両面で便利な国府台に、中央政府は国府を置きたかったのでしょう。たとえ地域の人々にとっての聖地であったとしても。

市川自然博物館だより81号より

 そして中央政府と地方豪族との間にトラブルがあり、惨劇が起こって、真間手児奈の歌が詠まれたという結論が出てきます。


 2人の男性に求婚されて、悩んで入水自殺したという手児奈の伝説は、中央政府と地方豪族の板挟みになった人々が何らかの形で犠牲になったとも読み替えられますね。


 そう考えると、行基が求法寺(ぐほうじ、今の弘法寺)を737年に建立したことも、うなずけます。男女のいざこざ程度で、忙しい行基が寺を建てるはずもないというのが『クラナリ』の考え。

弘法寺の山門

 歴史は下り、明治になると、国府台に陸軍の施設が置かれることになって、六所神社という聖地(パワースポット)が須和田に移されます。


 その時代時代の権力者によって、地域の人々は翻弄されるのだと、改めて思った次第です。


■参考資料

※今井博士の説などを『東国の歩みから幻の国府を掘る』で解説しているのは、寺村光晴博士(文学、和洋女子大学名誉教授)です。
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