【ローカルフェスに出店】市には今も私たちの暮らしと生業がある ~Have A Good Day Motoyawata出店レポート
コンビニエンスストアやネットショッピングなどで、24 時間、いつでも、なんでも、欲しいものを手に入れられる便利な時代になりました。
そんなスピードと効率性を追い求める現代社会の中で、市(マルシェ)が新しく生み出されていることを興味深く思っていました。
今年2月に始まったHave A Good Day Motoyawata(ニューボロイチ)。
【インタビュー】町の小さな自転車店が考えた、市川の朝を盛り上げる新習慣「Have A Good Day Motoyawata」で紹介したとおり、葛飾八幡宮の参道で毎年開かれてきた「八幡様の農具市(ボロ市)」をもっと盛り上げようと、市民の手で生まれた市です。
『クラナリ』はHave A Good Day Motoyawataの主催者や出店者の方々に取材・撮影をさせてもらってきたのですが、今回は『クラナリ』編集部として出店し、市を内側から見てみることにしたのです。
葛飾八幡宮は、平安時代中期の寛平年間(889〜898年)に、宇多天皇によって京都の石清水八幡宮から勧請され、葛飾八幡宮が建立されたとのこと(勝手にパワースポットその15 葛飾八幡宮)。
それよりもはるか前の古代に、すでに市は存在していました。
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古代の市には、国家が定め、管理した市(官市)と、地域の人びとが利用し自然に成り立った市(地方市)があった。
---『図説 市川の歴史 第二版』市川市教育委員会
『出雲国風土記』では浜辺、『万葉集』では川原の市が登場するようです。
水辺に市が立つエドロックの、新しくて懐かしい風景でも紹介したように、水陸の接点や道の分岐点などで、市は開かれていたのです。
葛飾八幡宮がある市川砂州は交通の要所。市川砂州には、あちこちで市が立っていたと考えられます。
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市には物資やそれにかかわる人びとが集散するだけでなく、男女の出会いがあり、人の生にかかわるさまざまな情報・情念・思惑がいきかう場所であった。
---『図説 市川の歴史 第二版』市川市教育委員会
情報・情念・思惑。市川市教育委員会が作成したものとは思えないような表現……
さておき、私たち人間という生き物は、大自然の中では貧弱な体をしていて、集団生活を行うことで今日の繁栄があると考えられています。みんなで協力して狩りをし、大型動物と対抗してきたというわけですね。「集まりたい」というのは、生存本能にも近い欲求なのかもしれません。
こうして人が集まっている市川砂州だからこそ、宇多天皇はわざわざ葛飾八幡宮を建てようと考えたのではないでしょうか。特に奇岩や巨岩などもこの場所になさそうですし、荒れてしまった関東を鎮圧するためにこの場所が選ばれたのではないでしょうか。これについては、勝手にパワースポットその15 葛飾八幡宮 でも言及しました。
時代は下って安土桃山時代の1577年に、織田信長は「楽市・楽座」という政策を打ち出します。戦国大名たちが経済活性化のために市を推奨したのでしょうね。
数多くの場所で立っていた市ですが、もしかすると明治になって規制されたのかもしれません。その中で残ったのが、葛飾八幡宮の参道で行われた市で、ほかの場所で市をやっていた人もここに集まってきて、規模が大きくなった可能性もあるでしょう。
やがて古着や古道具などを扱う出店者が増えたことから「ボロ市」と呼ばれるようになったと考えられます。ボロの語源は「おんぼろ」「ボロボロ」。こうした言葉がよく使われるようになった時代に、誰からともなくボロ市と言い始めたのでしょう。
また「海石榴市(つばいち)」、「阿斗桑市(あとのくわいち)」など、樹木の名前がついた市もあったとのこと。樹木は、神々が地上に降りてくる「依り代」です。
そして、市では神様をまつっていたそうです。
その理由として、現代とは違って物に値段がついていない時代は、双方が話し合って納得して行う物々交換を行っていました。その話し合いは争いにも発展しかねないので、人間を超越した神様のもとで物のやり取りや取り決めを行う必要があったと考えられています。
葛飾八幡宮の参道で市が立ったのには、上記のような理由もあるのかもしれません。
昨日のHave A Good Day Motoyawataでは、ポールダンスのダイナミックなパフォーマンスが行われたり、DJが音楽を流したり、市というよりフェスの様相を呈していました。
こうしたにぎやかさは決して新しいものではなく、伝統的な市にもあったようです。
『図説 市川の歴史 第二版』によれば、昭和5年のボロ市だと、境内には269店舗、その周辺には645店舗の出店があったそうです。「ヘビ女・大人十銭・小人五銭」と看板に書かれた見世物小屋もあったとのこと。
ヘビ女。どうやら生きているヘビを食べるなど、電撃ネットワークのように体を張ったパフォーマンスをしていたようです。
人が集まり、物を売り、買って、食べて、くつろぐ。
市が現代的な形に姿を変えながら続いているのは、そこに私たちの暮らしと生業があるからかもしれませんね。
※参考文献
『市と行商の民俗』 著/北見俊夫 岩崎美術社
そんなスピードと効率性を追い求める現代社会の中で、市(マルシェ)が新しく生み出されていることを興味深く思っていました。
今年2月に始まったHave A Good Day Motoyawata(ニューボロイチ)。
【インタビュー】町の小さな自転車店が考えた、市川の朝を盛り上げる新習慣「Have A Good Day Motoyawata」で紹介したとおり、葛飾八幡宮の参道で毎年開かれてきた「八幡様の農具市(ボロ市)」をもっと盛り上げようと、市民の手で生まれた市です。
『クラナリ』はHave A Good Day Motoyawataの主催者や出店者の方々に取材・撮影をさせてもらってきたのですが、今回は『クラナリ』編集部として出店し、市を内側から見てみることにしたのです。
葛飾八幡宮は、平安時代中期の寛平年間(889〜898年)に、宇多天皇によって京都の石清水八幡宮から勧請され、葛飾八幡宮が建立されたとのこと(勝手にパワースポットその15 葛飾八幡宮)。
それよりもはるか前の古代に、すでに市は存在していました。
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古代の市には、国家が定め、管理した市(官市)と、地域の人びとが利用し自然に成り立った市(地方市)があった。
---『図説 市川の歴史 第二版』市川市教育委員会
『出雲国風土記』では浜辺、『万葉集』では川原の市が登場するようです。
水辺に市が立つエドロックの、新しくて懐かしい風景でも紹介したように、水陸の接点や道の分岐点などで、市は開かれていたのです。
葛飾八幡宮がある市川砂州は交通の要所。市川砂州には、あちこちで市が立っていたと考えられます。
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市には物資やそれにかかわる人びとが集散するだけでなく、男女の出会いがあり、人の生にかかわるさまざまな情報・情念・思惑がいきかう場所であった。
---『図説 市川の歴史 第二版』市川市教育委員会
情報・情念・思惑。市川市教育委員会が作成したものとは思えないような表現……
さておき、私たち人間という生き物は、大自然の中では貧弱な体をしていて、集団生活を行うことで今日の繁栄があると考えられています。みんなで協力して狩りをし、大型動物と対抗してきたというわけですね。「集まりたい」というのは、生存本能にも近い欲求なのかもしれません。
こうして人が集まっている市川砂州だからこそ、宇多天皇はわざわざ葛飾八幡宮を建てようと考えたのではないでしょうか。特に奇岩や巨岩などもこの場所になさそうですし、荒れてしまった関東を鎮圧するためにこの場所が選ばれたのではないでしょうか。これについては、勝手にパワースポットその15 葛飾八幡宮 でも言及しました。
時代は下って安土桃山時代の1577年に、織田信長は「楽市・楽座」という政策を打ち出します。戦国大名たちが経済活性化のために市を推奨したのでしょうね。
数多くの場所で立っていた市ですが、もしかすると明治になって規制されたのかもしれません。その中で残ったのが、葛飾八幡宮の参道で行われた市で、ほかの場所で市をやっていた人もここに集まってきて、規模が大きくなった可能性もあるでしょう。
やがて古着や古道具などを扱う出店者が増えたことから「ボロ市」と呼ばれるようになったと考えられます。ボロの語源は「おんぼろ」「ボロボロ」。こうした言葉がよく使われるようになった時代に、誰からともなくボロ市と言い始めたのでしょう。
「ボロ」がつく言葉はいっぱい |
また「海石榴市(つばいち)」、「阿斗桑市(あとのくわいち)」など、樹木の名前がついた市もあったとのこと。樹木は、神々が地上に降りてくる「依り代」です。
そして、市では神様をまつっていたそうです。
その理由として、現代とは違って物に値段がついていない時代は、双方が話し合って納得して行う物々交換を行っていました。その話し合いは争いにも発展しかねないので、人間を超越した神様のもとで物のやり取りや取り決めを行う必要があったと考えられています。
葛飾八幡宮の参道で市が立ったのには、上記のような理由もあるのかもしれません。
昨日のHave A Good Day Motoyawataでは、ポールダンスのダイナミックなパフォーマンスが行われたり、DJが音楽を流したり、市というよりフェスの様相を呈していました。
こうしたにぎやかさは決して新しいものではなく、伝統的な市にもあったようです。
『図説 市川の歴史 第二版』によれば、昭和5年のボロ市だと、境内には269店舗、その周辺には645店舗の出店があったそうです。「ヘビ女・大人十銭・小人五銭」と看板に書かれた見世物小屋もあったとのこと。
ヘビ女。どうやら生きているヘビを食べるなど、電撃ネットワークのように体を張ったパフォーマンスをしていたようです。
人が集まり、物を売り、買って、食べて、くつろぐ。
市が現代的な形に姿を変えながら続いているのは、そこに私たちの暮らしと生業があるからかもしれませんね。
※参考文献
『市と行商の民俗』 著/北見俊夫 岩崎美術社
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