戦後から現代、そして未来へ
人口増と混乱の戦後
闇市は露店からマーケットへ
第二次世界大戦が終わった1945(昭和20)年から1947(昭和22)年まで、全国各所の駅前の空き地などに闇市が立ちました。闇市の立地には、空き地、道路脇、寺社境内、橋のたもと、用水路の上が挙げられます。
闇市には、次のスタイルの店がありました。
●露店:立ち売り、あるいはムシロ(筵)に座って売るスタイル→移動が簡単
●マーケット:廃材などを利用した長屋型のスタイル→移動が困難
当時は国鉄だった市川駅の前に、広場がありました。この広場の露店の闇市はマーケットとなり、「睦会マーケット」という名前が付けられました。
マーケットは土地に建物を建てるため、占有権や営業権といった権利が発生するわけですが、そもそも、誰の土地かわからない場所に不法占拠して建設されています。そのため、地主・借地人・借家人といった複雑になっていました。
総武線南側と埋立地に工場誘致
戦前の1939(昭和14)年に、市川市工業委員会が発足し、総武線の南側に工場の誘致を始めました。
加えて、1950(昭和25)年頃に、市川市が支出超過と人口増で財政難に陥り、税収を上げるために、浮谷竹次郎市長が工場誘致を推進します。
| 東京毛布株式会社市川工場(出典:会社沿革|日本フエルト株式会社) |
東京湾に広く存在していた干潟は、東京都に隣接する立地から、護岸整備・港湾整備・臨海工業用地造成といった海岸整備や埋め立てで、高度成長期に大幅に減少しました。
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| 昭和30年代に撮影された行徳沖(出典:『市川の昭和』) |
高度成長期
東西線開業と人口増
1969(昭和44)年3月29日に帝都高速度交通営団(営団地下鉄)東西線の東陽町~西船橋開業時に、行徳駅と原木中山駅が開業し、下妙典信号所が設置されました。
それに伴い、泥田だった妙典・行徳・南行徳エリアで、宅地開発が急ピッチで進められました。
宅地の乱開発
1955年頃から1970年代にかけての高度成長期に人口は増え、日本の住宅は不足していました。 ニーズに応じるため、政府は集合住宅を建設する政策を進め、民間業者は住宅地の乱開発を行いました。
「東市川南平台高級住宅地」については、市川市内の水田などを宅地開発し、渋谷区にある高級住宅街で大邸宅が建ち並ぶ「南平台町(なんぺいだいちょう)」の名前を借りたと考えられます。
総武線南側の工場も、大規模な団地や高層マンションなどへと変わっていきました。
高度成長期には、住宅地に不向きな低地や軟弱地盤でも宅地開発が行われていました。当時は宅地開発に対する法的な規制や条例が整っていないだけでなく、開発業者が悪質でした。上下水道の効率的な整備などを検討せず、無計画な開発が進んでいきました。
公害
1958(昭和33)年に、東京都江戸川区の製紙工場から、黒い排水が江戸川に放流されたました(「本州製紙事件」、「黒い水事件」)。江戸川の下流域は、大きな漁業被害を受けます。
その影響で、浦安の漁業従事者はは1962(昭和37)年に漁業権の一部を、1971(昭和46)年にはすべてを放棄。その後、東京湾の埋め立てが進みました。
また、下水道が整備が進んでいなかったため、生活排水が川に大量に流れ込んでいる時代でした。江戸川も汚染されて腐臭がしたと、国土交通省のサイトで報告されています。それを受けて、市川市は1961(昭和36)年に下水道事業に着手しました。
昭和の初めまで水田風景が残っていたものの、急激に都市化が進み、川は埋め立てられたり暗渠になったりして、現在に至ります。
そのほか、日本化学工業株式会社小松川工場の産業廃棄物である6価クロム鉱さいが、工場の敷地内外をはじめ、市川市内など多数の場所に埋め立てられました。1939(昭和14)年から投棄したクロム鉱さいの量は約57万トンで、後に投棄した場所がわかったのは約33万トンでした。
安定成長からバブル経済まで
「戦後」の清算と計画的なまちづくり
高度成長期には、都市部における人口の過密化や都市環境の悪化などが問題となっていました。
戦後のマーケットや、道路整備が行われていない住宅密集地を再開発して、高度利用を図り整備することを目的として、1969(昭和44)年に市街地再開発事業について定められました。「高度利用」の「高度」は主に高さのことで、土地が細分化されて、低層の建物が密集している市街地で、土地を集約して再開発を行い、いわゆるタワマンのような高い建物を建てられるようにすることです。
当時国鉄だった市川駅周辺では、1971(昭和46)年に株式会社市川ビルが発足。富川進市長などの働きかけで再開発が進められました。睦会マーケット・商店街の占有権と営業権を金銭などで清算し、再開発ビルで借地と借家を斡旋しました。
また、1980(昭和55)年に市川駅南口地区市街地再開発等調査が行われ、市川駅の南側で再開発が進められました。
本八幡駅周辺については、1990(平成2)年には本八幡C-1地区・本八幡D-1地区・本八幡D-2地区第一種市街地再開発事業の都市計画が決定しています。これらの再開発は、2013(平成25)年のターミナルシティ本八幡竣工で終了しています。
バブル崩壊
日本のバブル景気は、1985(昭和60)年のプラザ合意で始まったとされています。ドル高の是正のために、外国為替市場に協調介入して、ドルに対してほかの国の通貨を10~12%切り上げるという内容です。この合意を受けて、円高が急速に進行しました。
円高対策として、1987(昭和62)年2月までに5回の公定歩合が引き下げられて、2.5%となりました。株価も地価も上昇していき、「株を持っているだけでもうかる」という風潮がありました。東行徳商店会ホームページによると、1970年代は1坪当たり15万円で、1980年代は1坪当たり30万円ぐらいだったとのこと。
バブル景気の中、1988(昭和63)年にオープンしたのが、ショッピングモールが中心の複合施設である、ニッケコルトンプラザでした。
ショッピングモールが入る建物の外に、カーニバルプラザ市川スタジアム、銀座アスターなどのレストラン、そしてタコタイムやベッカーズなどといったファストフードがありました。
サーカス小屋を意識した「サーカスレストラン」であるカーニバルプラザ市川スタジアムはダスキンの運営で、外観はサーカスのテント小屋、室内はアーリーアメリカン調だったとのこと。1日4回、ピエロ(クラウン)によるショーが行われるほか、25分に1回、店内の池で雷が鳴って雨が降ったそうです。
1991(平成3)年から1993(平成5)年にかけてのバブル崩壊で、1995(平成7)年には住宅金融専門会社が破綻。
カーニバルプラザ市川スタジアムについては、2008(平成20)年より前に閉店したという情報がありました。2009(平成21)年の施設図では「コルトンアネックス」になっています。
市川駅南口地区市街地再開発はバブル崩壊による経済状況の悪化や地価下落に伴い、事業が停滞しました。事業が終了したのは、2009(平成21)年です。
人口減少・少子高齢化が進む現代と未来
いつかは止まる人口増
2022(令和4)~2026(令和8)年で、市川市の総人口は増え続けてきました。
しかし、国立社会保障・人口問題研究所の将来推計で東京23区での人口減少が2035年頃に始まると予測されています。ですから、市川市についても10年以内に人口のピークを迎えると考えられます。
増える外国人
市川市に住む外国人は、市川市公式住民基本台帳人口によると、2026(令和8)年3月31日現在で2万5087人です。
2025(令和7)年12月の在留外国人調査では、中国(7169人)、ネパール(3075人)、ベトナム(2864人)がトップ3です。
未来のまちづくり
人口が減少する中で、上下水道や道路といったインフラをどのように維持していくのかが課題となります。その対策として、国土交通省などが打ち出しているのが、コンパクトなまちづくりです。 市街地の広がりを狭くすることで、公共サービスの効率化と公共交通の利用を促進します。
例えば、下水道施設の整備や運営に必要な費用については、一般的に、下水道使用料や税金、企業債、国からの補助金などでまかなわれています。人口が減少すれば、下水道使用料や税金も減少するため、下水道事業のための費用も不足する可能性が出てきます。
また、人口が減少して空き家が虫食い状態で増えていった場合、「人口密度がかなり低い地域でも、下水道などのインフラを維持するためにコストがかかる」という問題も発生するでしょう。
私たちの日々の生活で、必ず下水は発生します。町の衛生を維持するために、下水道は必要不可欠なインフラなのですが、今の状態を将来も維持するのは、厳しい(むしろ不可能)という現実があります。また、下水道管のメンテナンスが行き届かなければ、陥没事故のリスクが高まります。
インフラのほとんどは、高度成長期に整備されました。インフラの耐用年数は一般的に50年といわれていて、人口減・税収減の中、老朽化したインフラをどのように更新するのかが「2040問題」です。
また、高度成長期には都市化が急速に進み、水害などのリスクが高い場所でも宅地化されていきました。
地震については、首都直下地震が今後30年以内に70%の確率で発生すると予測されています。
戦後に急速に都市化が進んだ市川市で、これからの人口減少、少子高齢化、温暖化による大雨、そして地震といった課題を検討しながら、無理のないまちづくりへとつながていくことが求められているのではないでしょうか。




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