1300年前の国府台の断崖絶壁を再現してみたいのだ 9 1300年前は行徳のすぐ南側に海岸線があった
千葉県市川市の歴史に残る伝説の美女、手児奈(てこな)。彼女は1300年前の人物とクラナリは推測して、当時の国府台の崖は現在とまったく違う形状をしていたのではないかと勝手に妄想しているのが「1300年前の国府台の断崖絶壁を再現してみたいのだ」シリーズです。
今回紹介するのは、千葉大学環境リモートセンシング研究センターの資料です。
| 出典:洪水地形の判読|千葉大学環境リモートセンシング研究センター |
上の写真で赤い線が引かれているのが、6世紀から8世紀にかけて、つまり古墳時代後期から奈良時代にかけての海岸線です。市川市については、JR総武線より南側が海の下だったとわかります。
ご存じのとおり、現在の江戸川は大正期に掘削された放水路です。旧江戸川が、もともとの江戸川で、1300年前ぐらいには「ふとゐがは」と呼ばれていました。ただ、今回の記事では、現在の呼び名で進めていきます。
上の写真を見ると、旧江戸川と赤い線の間にすき間があります。ここは自然堤防あるいは砂州で、旧江戸川のすぐ脇に粒の大きな土砂が積もり、わずかに盛り上がった微高地です。この微高地に人々が定住して、集落ができ、今の行徳の町につながったのだと考えられます。
| 北海道を流れる石狩川の自然堤防(出典:4.河川の作用による地形|国土地理院) |
| 出典:自然堤防|国土地理院 |
また、徳川家康によって、東京湾の地形は大きく変えられました。それ以前の、中世の東京湾沿岸の地形が復元されていました。
| 東京低地の中世頃の地形 (久保,1994)(出典:河川と平野の地形からみえること─利根川・荒川下流低地を例に) |
この図に、人力とAIで色を付けてみました。
行徳のすぐ南に、遠浅の干潟(上の図で黄緑のエリア)が広がっていました。
また、江戸川の上流の埼玉県も、湿地が多数あったとわかります。
| 砂州(出典:5.海の作用による地形|国土地理院) |
| 明治初期の行徳 |
ここで、冒頭の写真に話を戻すと、関ヶ原の戦いがあった1600年頃までに、青の線が引かれた東京メトロ東西線沿線くらいまで海岸線が後退しました。
そして、江戸時代に利根川などが付け替えられ、干潟では干拓が進められ、湿地は排水して開拓され、1880(明治13)年には紫の線が海岸線になったと思われます。
高度成長期に東京湾の埋め立てが進み、急速に都市化が進みました。
国府台の断崖絶壁の西側は、沖積層(ちゅうせきそう)で、最終氷期最盛期以降 (約2万〜1.8万年前より新しい時代) に堆積した、最も新しくて軟弱な地層です。沖積は「川の流れで土砂が積もる」、また洪積(こうせき)は「洪水によって土砂が積もる」という意味を持つ言葉です。洪積という言葉は、教科書などでは使われなくなったとのこと。
「洪積(diluvial)」とは、本来は「ノアの洪水による」という意味であり、これらの地層がノアの洪水伝説のような天変地異でつくられたという解釈による用語のため、現在はほとんど使用されていません。そのため、地形学の分野でも「洪積台地」の用語は用いられなくなり「最終間氷期とそれ以降に形成された段丘」のことを、単に「台地」とよぶようになりました。以上のような経緯から「洪積台地」の用語を「台地」に変更しました。
| 地形と地下の構造(出典:葛飾区史) |
地震の際に市川市がJR総武線より南側が揺れやすいのも、沖積層の上で私たちが暮らしているからだとされています。
Leave a Comment