千葉県を通る古い陸道・水道
| 千葉古街道歴史散歩より |
五街道は1601年、徳川家康によって江戸の日本橋を起点に多くの街道の整備が始まりました。特に重要な街道を五街道と呼ばれました。
五街道
東海道
中山道
日光街道(道中)
奥州街道(道中)
甲州街道(道中)
そして、五街道に付属する街道として、脇往還あるいは脇街道と呼ばれる街道もありました。
水戸街道 脇往還
現在の常磐線や国道6号のベースとなっています。
水戸街道は日光街道の付属という位置付けで、江戸と、徳川御三家の水戸藩主の居城を結ぶ道です。江戸時代初期に幕府の直轄工事で整備されました。なお、水戸藩主は定府(じょうふ)とされ、江戸に居住していたので参勤交代はありません。
江戸の日本橋から、千住、新宿、松戸、小金、我孫子、取手、藤代、若柴、牛久、荒川沖、中村、土浦、中貫、稲吉、府中、竹原、片倉、小幡、長岡を通って水戸に至り、19の宿駅が置かれていました。
千住宿は、日光街道と奥州街道、水戸街道が分岐する場所で、多くの旅人でにぎわいました。
水戸藩士が往来した水戸街道の宿場町には、水戸家ゆかりの寺社や伝説が残っています。宿駅(しゅくえき、旅人を泊めたり、荷物を運ぶための人や馬を集めておいた宿場)に定められた小金宿や松戸宿には、人馬が待機し、次の宿までの中継輸送である継立(つぎたて)を行いました。人馬が足りないときには、助郷(すけごう)と呼ばれた近隣の村に提供の義務が課せられました。
成田街道(佐倉道) 脇往還
現在の国道14・296号周辺です。
もともとは佐倉藩や多古藩、小見川藩の参勤交代に利用された佐倉道でした。江戸時代中期以降、歌舞伎の市川團十郎が成田不動を信仰したことで、成田山新勝寺への参詣が盛んになって成田街道と呼ばれるようになりました。
日光街道の付属という位置づけで、水戸街道から新宿で分岐し、小岩・市川関所、八幡、船橋、大和田、臼井、佐倉、酒々井、寺台を通って成田へ至ります。
八幡宿までは道中奉行、大和田宿・臼井宿・酒々井宿・寺台宿が佐倉藩の管下でした。
江戸から船で行徳まで行き、そこから陸路で船橋へ向かうルートもできました。
木下街道(きおろしかいどう) 脇往還
江戸時代に、米やしょうゆ、鮮魚など重い荷物を運ぶために主に使われていたのは、陸路ではなく水路でした。
押送船(おしょくりぶね)は、鮮魚を専用に運ぶ、帆と櫓を併用する快速船です。房総各地で水揚げされた鮮魚が、押送船で日本橋へ運ばれました。
木下街道は、行徳から八幡、鎌ヶ谷、白井、大森を通って木下に至ります。銚子や佐原から船で運ばれてきた物資や旅人が、木下で陸路に乗り換えて江戸を目指しました。
鮮魚街道(なまかいどう)
夕方に銚子の港で水揚げされた魚を、翌朝に利根川の布佐河岸(ふさかし)で積み替えて松戸の河岸まで馬で陸送し、夕方以降日本橋の魚河岸に届けるルートです。
房総往還
現在の国道14・16・127号周辺です。
船橋から千葉、浜野、八幡、木更津、佐貫を通って館山に至ります。
木更津は、江戸との海上輸送の拠点でもありました。
五大力船(ごだいりきせん)は、「五大力菩薩」が名前の由来とされている船です。遠浅の海を航行できるように、吃水が浅く作られている点が特徴です。房総で作られた薪炭や米が、五大力船で江戸に運ばれるとともに、房総と江戸を往来する人々も運びました。
木更津と日本橋を往復する五大力船は、木更津船と呼ばれていました。
御成街道
御成(おなり)とは将軍などの外出で、1613年12月、徳川家康が東金へ鷹狩りに出かけるために作られた将軍家専用の道路が御成街道です。徳川家康は没後に東照大権現(とうしょうだいごんげん)という神号が与えられたことから、権現道とも呼ばれています。また、船橋から東金までを、農民を動員して昼夜問わずハイスピードで作ったことから、「一夜街道」「提灯街道」という別名もあります。
船橋から御殿を通って東金に至ります。
■主な参考資料
郷土の資料 ~木下街道の歴史~
29.東京湾アクアラインと押送船(おしょくりぶね)・五大力船(ごだいりきせん)
松戸市観光協会 水戸街道
成田街道
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