真間川は、いつから「真間川」と呼ばれるようになったのか問題 その2

明治の初期までは「広大な水たまり」と認識され、川の存在に人々は気づいていなかったかもしれません。

 真間川は、いつから「真間川」と呼ばれるようになったのか問題 その1ではこのように述べましたが、江戸時代に作成された地図に、名称の記載はないものの、真間川が載っていました。

「元禄国絵図」の「下総国絵図」国立古文書館デジタルアーカイブより一部改変

 1696年(元禄9年)に作成が命じられ、1702年(元禄15年)頃に完成したとされている「元禄国絵図」の中の「下総国絵図」に、真間川が描かれていました。

 なお、江戸時代初期の1620年(元和6年)に、狩野浄天(かのうじょうてん)と田中内匠(たなかたくみ)によって開削された「内匠堀(たくみぼり)」の記載が、「元禄国絵図」の「下総国絵図」にはありません。

 1858(安政5年)の「安政5年調 葛西用水々路の古図」に、内匠堀の記載がありました。この地図も、真間川については「真間溜井」と書かれていて、川とは認識されていない印象です。

「安政5年調 葛西用水々路の古図」(アデアックデジタルアーカイブより)

 内匠堀は、「たくさんある水路の中の一つ」という扱い方。「道野べ」と読めるところが源流の川が、中沢を通って分岐し、その支流の一つに内匠堀をつなげたと推測できます。
 「道野べ」は現在の鎌ヶ谷市の道野辺で、ここが源流ということは大柏川を指しています。


 「元禄国絵図」の「下総国絵図」と、「安政5年調 葛西用水々路の古図」との大きな違いは、源流です。「下総国絵図」だと、真間川の源流が道野辺とされているからです。

 ここからは推測です。地形的には谷に水が集まって、川が流れます。大柏谷を流れる大柏川と、国分谷を流れる国分川が、市川砂州でせき止められて、一帯が低湿地になり、江戸時代の人たちには流路がわかりにくくなっていたのではないでしょうか。
 そのため、元禄と安政で違う図ができてしまった可能性があります。

 

 また、1891年(明治24年)に梅沢藤造氏によって編集された「千葉県北総東葛飾沿浦之地図」では、広大な水たまりが描かれています。そして真間川は、「水たまりに流れ込む、いくつかの水路の一つ」のような扱い。

「千葉県北総東葛飾沿浦之地図」アデアックデジタルアーカイブより一部改変


 以上のことから、「利根川東岸一覧」に描かれているように、真間川流域は水浸しの湿地帯だと、当時の人々は認識していたのでしょう。

「利根川東岸一覧」アデアックデジタルアーカイブより一部改変

 そして、「真間川」と名前が付いたのは、「迅速測図(迅速図)」が作られた1903年(明治36年)頃だと推測できます。


※事実誤認がありましたら、ご連絡ください!!

○参考資料

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真間川は、いつから「真間川」と呼ばれるようになったのか問題 その1


○追記
 『真間川百年』(著/鈴木恒男 崙書房)には、「今の真間川は実は、現在大柏川と呼ばれているの川の一つの支流に過ぎなかった」(11ページ)に書かれていました。「元禄国絵図」の「下総国絵図」と鈴木さんは、同じ認識のようです。

 そして、真間川はどこからどこまでかという認識は、市内の地域によって違っていたとのこと。「真間川の西の端が江戸川に接する根本水門であることは問題ないが、東の方はどこまでか、というと、市川、真間、須和田、国分の人達は、国分川との合流点までだと言う」(29ページ)のだそうです。
 ちなみに、下の図「大正末年の内匠川水系の川の名」にある「たくみ川」は、現在の大柏川です。

『真間川百年』より

 かつて、市内には多くの川や水路があったようですが、「昭和二十八年、全部を一つながりの川として一級河川真間川とし」(29ページ)、水害対策に当たったようです。

 内匠堀については、117・118ページに次のように書かれていました。
江戸時代に、田中内匠重兵衛と狩野浄天によって開墾されたと伝承されていて、人出が大いに加わっていることは明らかといえる。
 しかし、(中略)二人の人物に関して、手掛かりとなるようなものは殆ど残っていない

残されているのは、内匠堀、或いは浄天堀と呼ばれてきた水路が、行徳から浦安に至る街道筋に併行して通っており(中略)その上流は八幡と鬼越、北方の境を通る川に続いている、という事実だけである
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