勝手にパワースポットその19 豊受神社<浦安>
豊受神社
〒279-0004 浦安市猫実3-13-1
車1台がやっと通れるかどうかの、見通しの悪い細い道。
古くからある町の特徴です。昔はリアカーを引いていて、その幅に合わせて道を作ったからだと聞いたこともあります。
東京メトロ東西線浦安駅の近くには、そんな細い道が多く、漁師町だった面影もちらほら残っていました。
豊受神社は、平安時代末期の保元2年(1157年)の創建といわれているそうです。
保元といえば、保元元年(1156年)の保元の乱。鳥羽天皇の息子で兄に当たる崇徳上皇と、弟に当たる後白河天皇が対立し、それぞれに源氏と平氏がくっついて、さらに内輪もめしている藤原家も絡み、戦いに発展してしまったようです。
勝利した後白河天皇側にいたのが、平清盛と源義朝。源義朝は、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の父です。
さらに4年後の平治元年(1160年)、平治の乱が起こり、平清盛が源義朝に勝ったのです。こうして武士が台頭し、平清盛は武家政権を打ち立てます。「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」となるのですが(『平家物語)。』
このような権力抗争の激しい不安定な時代に、豊受神社は創建されたことになっています。
少々疑問が残ります。
浦安市の資料によれば、浦安に集落が形成されたのは平安時代末期となっています。低湿地なので、ちょっと住みにくい場所だったのかもしれません。
https://www.city.urayasu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/151/2.pdf
集落ができ始めた頃に、神社が創建されたというのが、腑に落ちないのです。
神様を自分たちの土地に呼んでくるには、それなりの団結力が必要です。みんなでお金などを出し合って、お招きしたい神様がいる神社まで、遠路はるばる代表者が参拝に行っていたと聞いています。
「神様に来てほしい」という共通の目標を持つコミュニティができていない段階で、神社は創建されない、言い換えれば、神社とコミュニティの成熟度とは密接に関係しているということです。
ほかにも、土地の災いなどを鎮めるために神社が創建されることもあったようです。
都を作るときには、東西南北や北東などに寺社を建てたという言い伝えも残っているのです。歴史ミステリーのたぐいとも言えますが、亡くなった菅原道真を恐れて天神様としてまつるようになったことを考えれば、昔の人にとって自然なことだったのかもしれません。
平安時代末期の浦安には、上記の条件が当てはまらないので、もっと後の時代に豊受神社が創建されたのではないかと考えた次第です(あくまでも勝手な解釈なので、専門家の皆さん、いろいろと教えてください!)。
なお、豊受神社は明治元年(1868年)まで「神明宮社」と呼ばれていたとのこと。
古い地名が「大宮前」だった地域にあったそうですが、江戸時代の浦安の地図を見てみたいところです。
豊受神社のサイトによれば、鎌倉時代中期の永仁元年(1293年)に大津波に遭って、社殿が大破して再築。江戸時代にも風水害により破損したので、再建したとのことでした。
浦安は江戸川河口にある低湿地なので、豊受神社も台風や津波などによる被害に遭ってしまったのでしょう。
現在は屋根の形が優雅で美しい社殿でした。昭和49年(1974年)に建て直されたのだそうです。
風水害に遭っても土地を守り、神様を大事にする、浦安の先人たちの地域愛が感じられます。
今日も平日というのに、多くの人が参拝に訪れていました。
〒279-0004 浦安市猫実3-13-1
車1台がやっと通れるかどうかの、見通しの悪い細い道。
古くからある町の特徴です。昔はリアカーを引いていて、その幅に合わせて道を作ったからだと聞いたこともあります。
東京メトロ東西線浦安駅の近くには、そんな細い道が多く、漁師町だった面影もちらほら残っていました。
豊受神社は、平安時代末期の保元2年(1157年)の創建といわれているそうです。
やっぱり鳥居はこの形 |
保元といえば、保元元年(1156年)の保元の乱。鳥羽天皇の息子で兄に当たる崇徳上皇と、弟に当たる後白河天皇が対立し、それぞれに源氏と平氏がくっついて、さらに内輪もめしている藤原家も絡み、戦いに発展してしまったようです。
勝利した後白河天皇側にいたのが、平清盛と源義朝。源義朝は、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の父です。
さらに4年後の平治元年(1160年)、平治の乱が起こり、平清盛が源義朝に勝ったのです。こうして武士が台頭し、平清盛は武家政権を打ち立てます。「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」となるのですが(『平家物語)。』
このような権力抗争の激しい不安定な時代に、豊受神社は創建されたことになっています。
少々疑問が残ります。
浦安市の資料によれば、浦安に集落が形成されたのは平安時代末期となっています。低湿地なので、ちょっと住みにくい場所だったのかもしれません。
https://www.city.urayasu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/151/2.pdf
集落ができ始めた頃に、神社が創建されたというのが、腑に落ちないのです。
神様を自分たちの土地に呼んでくるには、それなりの団結力が必要です。みんなでお金などを出し合って、お招きしたい神様がいる神社まで、遠路はるばる代表者が参拝に行っていたと聞いています。
「神様に来てほしい」という共通の目標を持つコミュニティができていない段階で、神社は創建されない、言い換えれば、神社とコミュニティの成熟度とは密接に関係しているということです。
ほかにも、土地の災いなどを鎮めるために神社が創建されることもあったようです。
都を作るときには、東西南北や北東などに寺社を建てたという言い伝えも残っているのです。歴史ミステリーのたぐいとも言えますが、亡くなった菅原道真を恐れて天神様としてまつるようになったことを考えれば、昔の人にとって自然なことだったのかもしれません。
平安時代末期の浦安には、上記の条件が当てはまらないので、もっと後の時代に豊受神社が創建されたのではないかと考えた次第です(あくまでも勝手な解釈なので、専門家の皆さん、いろいろと教えてください!)。
なお、豊受神社は明治元年(1868年)まで「神明宮社」と呼ばれていたとのこと。
古い地名が「大宮前」だった地域にあったそうですが、江戸時代の浦安の地図を見てみたいところです。
豊受神社のサイトによれば、鎌倉時代中期の永仁元年(1293年)に大津波に遭って、社殿が大破して再築。江戸時代にも風水害により破損したので、再建したとのことでした。
浦安は江戸川河口にある低湿地なので、豊受神社も台風や津波などによる被害に遭ってしまったのでしょう。
現在は屋根の形が優雅で美しい社殿でした。昭和49年(1974年)に建て直されたのだそうです。
風水害に遭っても土地を守り、神様を大事にする、浦安の先人たちの地域愛が感じられます。
今日も平日というのに、多くの人が参拝に訪れていました。
社殿の左横に天狗様が! |
樹齢400年の大銀杏 |
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