永井荷風と市川駅北口の闇市
小説家の永井荷風が、市川市に引っ越してきたのは、太平洋戦争が終わった翌年の1946(昭和21)年1月16日のことです。
東京都内で空襲に遭い、自宅(木造洋風2階建の偏奇館)を焼失した永井荷風は、熱海への疎開を経て、市川市菅野258番地に住み始めました。ここは従弟の杵屋五叟(きねやごそう、邦楽家)が借りた家でした。
1947(昭和22)年1月6(あるいは7)日に、同じく菅野の小西茂也(フランス文学者)の家に転居し、同居を始めました。その後、小西家の近くに古家を購入して、1948(昭和23)年12月28日に一人住まいを開始。
荷風先生をわが陋屋の同居人(?)として迎える光栄を有したのは昭和廿二年一月七日から翌年十二月廿八日までの約二ヶ年の間であった。
1957(昭和32)年3月に京成八幡駅近くに家を新築して転居し、1959(昭和34)年にこの家で亡くなりました。
![]() |
| 永井荷風が住んだ家(出典:『市川風土記』市川ジャーナル) |
戦争が終わった1945(昭和20)年から1947(昭和22)年まで、全国各所に闇市が立ちました(終戦から1週間後に新宿で発生した闇市が最初)。その多くが、駅前の空き地です。
新橋駅前、終戦の翌々日あたりにはもう二、三人の露天商が、広場で品物を並べていたと言われる。その新橋駅前の疎開あとの広場に、いつしか市場らしい形態がととのいはじめたのは、終戦後一カ月あまりたったころで、空腹を抱えた日本人たちは、新橋へ、新橋へとゾロゾロ集まってきた。
市川駅や本八幡駅の改札前広場(当時はどちらの駅も北口しかなかった)にも闇市が立ちましたが、規模は市川駅のほうが大きかったと推測できます。
理由として、まず、国府台に陸軍施設があったため、市川駅周辺から国府台までは商店などがすでに発達していたこと。
そして、一駅とはいえ、市川駅のほうが東京に近いこと。当時、東京に向かうバスは、市川駅発着でした。
それから、永井荷風の日記『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』に登場する闇市は、本八幡駅よりも市川駅のほうが回数が多かったからです。
『断腸亭日乗』の内容から、市川駅前で、最初はゴザなどの上に商品を並べて売っていた露店が、1947(昭和22)年3月までに長屋形式のマーケット(後に睦会マーケット)に変わったと推測できます。
『荷風ノ散歩道』(市立市川歴史博物館 1990年)に、睦会マーケットの店舗がわかる市川市動態図鑑が掲載されていますが、いつのものかは記載されていませんでした(市川市中央図書館では、昭和 32 年(1957)版、昭和 36 年版(1961)、昭和 41年版(1966)を所蔵)。
![]() |
| 睦会マーケット(出典:『荷風ノ散歩道』) |
闇市が開かれていた場所にマーケットと呼ばれる長屋型の共同店舗が建設され、やがて周辺にも商店街が発達しました。そんな市川駅前の睦会マーケット・商店街は、闇市の頃から、地権者に反社会的勢力も含まれていました。
睦会マーケット・商店街の大部分が、ドブの上に店舗が建っていたため、再開発が必要となりました。1960 年代後半には市川駅北口防災街区造成組合が発足しましたが、組織としてのまとまりには欠けていました。こうしたことから、当時の富川進市長などの働きかけで、1971(昭和46)年に株式会社市川ビルが発足しました。
こうして、市川駅北口に商業ビルが1975(昭和50)年に竣工し、ダイエー市川店などがテナントで入る市川ビルがオープンしました。
以下は、『断腸亭日乗』から、市川の露店とマーケットに関する記述を抜粋したものです。永井荷風は、小岩や船橋(海神)の闇市にも、頻繁に足を運んでいたことが、『断腸亭日乗』でわかります。
〇『断腸亭日乗』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/51302_49053.html
****
〇『断腸亭日乗』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/51302_49053.html
****
昭和廿一年
一月十九日。晴。寒甚しからず。荷物を解き諸物を整理す。省線停車場前に露店多く出づと聞き午後行きて見る。京成電車踏切近くなる門構の家に汁粉一圓四十五錢との貼札出せるを見、入りて食するに片栗粉を團子のやうになし汁は薄甘き葛湯なり。汁粉といふ語も追々本來の意を失ひ行くものゝ如し。
一月廿一日。細雨霏々午に至つて霽る。風暖にして春既に來るの思あり。驛前の露店にてわかさぎ佃煮を買ふ。一包貳拾圓なり。夜机に向はんとせしが隣室のラヂオに妨げられて歇む。
二月初二。陰。午後より日輝きて稍あたゝかになりぬ。病院の歸途驛前に至り見るに雪後の泥路をいとはず露店の賑平日の如し。甘藷は禁止になりしとて賣るものなし。菓子ぱん(一枚一圓)五六片を購ひ京成電車線路に沿へる靜なる林下の砂道を歩みながら之を食ふ。家なき乞食になりしが如き心地して我ながら哀れなり。
二月十八日。晴又陰。市川驛前露店の賑ひ、新令布告後も更に變るところなし。夜また藥湯に浴す。
三月初二。陰。舊紙幣通用本日限り。銀行郵便局前に群集列をなすこと二三丁に及ぶ。驛前の露店雜貨を賣るものばかりにて、飮食店は一軒もなし。肴屋八百屋も跡を斷ちたり。汁粉賣るもの唯一軒目にとまりたれば一椀を喫して歸るに、五叟の家人恰も新聞をひろげ汁粉にて死したるものあり。甘味に毒藥を用ひしが爲なりと語り合へるところ。余覺えず戰慄す。惜しからぬ命もいざとなれば惜しくなるものと見ゆ。
三月十五日。晴、春風嫋々。市川驛前の闇市にて一老婆のふかしたる里芋賣りゐたるを見、花見頃のむかしを思出でゝこれを購ふ。但し一つ一圓とは驚くべし。木戸氏來書。島中氏來書。生活費の事につき懇切に心配すべき趣しるされたり。午後朝日新聞記者來訪。夕刊紙上連載の長編小説がほしき由。
五月初八。晴。午前小川氏來話。午後八幡の國道を歩む。南側に八幡不知やはたしらずの藪やぶあり。竹林の中に一片の石碑あれど石垣を圍らしたれば入りて見ること能はず。老榎欝蒼。道の半を蔽へり。北側に八幡神社の華表立ちたり。境内廣くして松杉欝然たり。山門の前に植木屋さま/″\の苗木を賣る。茶見世一軒あり。襷たすきがけ姉あねさま冠りの女房何やら貝のむきみを燒きて賣りゐたり。鳥居前國道の兩側にもパン心太など賣る店多し。一皿皆十圓なり。省線驛前にも露店立並びたり。夜小説執筆。
五月十一日。細雨。後に歇む。午前扶桑書房主人來話。晝飯後散策。露店にて※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)卵を買ひ八幡祠前の休茶屋にて牛乳を飮む。歸途緑蔭の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集をよむ。砂道平にして人來らず唯鳥語の欣々たるを聞くのみ。此の樂しみも市川に來るの日まで豫想せざりし所なり。家にかへるに放送局の來書あり。煩累厭ふべし。
五月廿四日。陰。午前新生社酒井氏來話。午後下谷うさぎ屋來話。共に八幡驛前の露店を見る。
五月廿八日。陰。獨活うどを煮て晝餉を食す。余老來好んで菜蔬を食す。蠶豆、莢豌豆、獨活、慈姑の如きもの、散歩の際これを路傍の露店又は農家について購ふことを得べし。東京の人に比すれば幸多しと云ふべし。飯後出でゝ鬼越の田間を歩す。梨畠多し。
八月初二日。(略)昨日より驛前闇市取拂となり八百屋にも野菜少し。
八月十六日。晴。殘暑甚し。夜初更屋内のラヂオに追出されしが行くべき處もなければ市川驛省線の待合室に入り腰掛に時間を空費す。怪し氣なる洋裝の女の米兵を待合すあり。町の男女の連立ち來りて凉むもあり。良人の東京より歸來るを待つらしく見ゆるもあり。案外早く時間を消し得たり。驛の時計十時を告げあたりの露店も漸く灯を消さんとす。二十日頃の月歸途を照す。蟲の聲亦更に多し。
昭和廿二年
三月十日。晴。風寒し。午後市川驛前のマーケツトにて精進揚を買うてかへる。
四月廿六日。晴。(略)市川驛前のマーケツトに天麩羅饂飩を食す。
六月初一日 時。市川駅前の天ぷら屋に麦酒を飲む。一填金百参拾円。車海老天象羅一人前五拾円なり。
六月六日。時々細雨。市川にても遠からず喫茶店を初めその他飲食店なくなるべしとの噂あれば午後海神への行がけ驛前のマーケツトにて鰻蒲焼を食す。一串金弐拾圓なり。
六月廿八日。細雨終日糠の如し。市川驛前のマーケツトに鰻飯(九十圓也)を食して海神に行く。
六月廿九日。(略)他の二軒は市川驛前マーケツトの古雑誌屋なり。
七月一日。(略)驛前マーケツトの天麩羅屋に至る。同所の古本屋にて洋書三冊を見出して取戻したり。
■主な参考資料
View & Vision No42 「不働」産業から「地域のインフラ」への脱皮・成長


Leave a Comment