「村」という表記が使われるようになったのは、1888(明治21)年の市政・町村制の公布以降なのか問題

 「市町村」という地方公共団体で、最も小さい単位が「村」です。「村」の古い字体が「邨」で、「村」は「邨」が簡略化された字だと説明されています。文部科学省の異体字検索漢字リストにも掲載されています。そのようなわけで、「村」も「邨」も、音読みは「ソン」、訓読みは「むら」です。

 「むら」は、日本に古くからある言葉とされていたり、朝鮮語がルーツと説明されていたり、ちょっとよくわからないのですが、ひとまず、集落を示す言葉です。
 『古事記』(712年成立)や『日本書紀』(720年成立)には「磐余邑(いわれのむら)」「鵄邑(とびのむら)」など、地名で「むら」は登場しますが、「村(邨)」という表記ではありません。

 地名に「村」が使われたのは、いつなのでしょうか。


 日本では、645年の乙巳の変に続く大化の新政で、すべての土地と人民を国家(天皇)の支配下に置く公地公民、さらに戸籍を作成して6歳以上の男女に口分田を与え、死後に返還させる班田収授が行われました。
 地方の行政単位は、次のとおりです。

(今の都道府県)>(こおり、今の市町村)>(町名、字小字)
※701年の大宝律令・養老律令で国>郡>郷

 「この土地は自分のものではない」と思うと、人々の農業や開墾への熱意は失われていたようです。
 そのため、奈良時代の743年に出された墾田永年私財法で、荘園という私有地が認められました。自分で開墾した土地を自分で持てるようになり、貴族や寺社が荘園を所有しました。

 平安時代中期から鎌倉時代にかけてできたのが、荘園公領制です。私有地の荘園と、朝廷が国司を通じて支配した公領(国衙〈こくが〉領)を合わせた体制を指します。
 国司は、口分田を名(みょう)という単位に編成し直しました。有力農民の田堵(たと)に農業経営を任せて、官物や臨時雑役といった税や労役を課しました。経営規模が大きい場合には大名田堵、小さい場合には小名田堵と呼ばれました。

  1185年に鎌倉幕府が成立し、全国に守護が置かれました。

国司:朝廷が設置
守護:幕府が設置

 室町時代になると、農業技術が飛躍的に向上しました。そして、安全や水利権の確保のために惣(惣村)という集落が生まれます。同じ地域に住む人々が自然と集まってきて、組織的に自治を行うようになりました。
 荘園公領制は弱まり、荘園や公領の枠を超えて地域住民が結びつきました。領主に対する年貢納入は、惣で請け負っていて、これを地下請(惣請、百姓請)といいます。
 土地に対しては領主、地頭、地侍(土豪)、農民など複数の人々が権利を持ち、作合という中間搾取(ピンハネ)が行われていました。

惣村は、農業生産に必要な山や野原などの共同利用地(入会地)を確保するとともに、灌漑用水の管理もおこなうようになった。
『詳説日本史B』山川出版
 
 「村(邨)」の登場は、1582~1598年に行われた豊臣秀吉による太閤検地のようです。村を単位として検地帳が作成されて、村の境界が確定しました。これが村切(むらぎり)です。
豊臣秀吉(出典:Wikipedia

 年貢は、村高(検地によって確定された村全体の石高)を対象に課され、村役人の責任の下で村ごとに納入されました。 ちなみに、船橋市には、江戸時代初期の1602年に実施された検地帳が現存するとのこと。 

 太閤検地や江戸時代初期の検地で村の境界が決まることで、自治を行っていた惣は解体されることになります。ただ、入会地などは後世に残りました。

入相・入合とも。一定の場所を複数の家や村が共同で利用し,利益を得ること。山野や海面の利用,また用水路の利用などに入会関係が生じた。近世では山野の入会は,農民が刈敷・秣(まぐさ)・薪や建築用材・萱などを採取したもので,村の農民全員が入り会う村中入会と複数の村が入り会う村々入会があった。農業生産の拡大にともない入会をめぐる争論が頻発した。一方,商業的農業の発達によって金肥が導入され,薪が商品化されるなどによって,入会地の利用形態が変化し,分割所持される場合も生じた。入会地は,地租改正によって官有地とされた場合が多かったが,入会関係は現在でも残存している。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)



 「村」の古い字体である「邨」は、明治の初めまで使われていたようです。1888(明治21)年の市政・町村制の公布で、いくつかの「邨」が合併して「村」ができたと考えられます。

膳の箱「(表)明治十二年卯第十月 箱三ツ之内拾人前 (裏)百草増島太兵衛」

中津江村は旧栃野邨・合瀬邨の合併で、「郷中央二位スル」ためとしている。


■主な参考資料
とよはしの歴史入会地の争い
 入会地(いりあいち)とは村のまわりの山林原野で、近隣の村人たちが一定のルールにしたがって秣(まぐさ)・薪などを採集できる場所である。ここで採集した草は刈敷(かりしき)として肥料にもなった。
 この時代、村方自治を基礎にして村をひとつのまとまりとして考える自治意識が育ってきた。平和が続くなかで村々は急速に発展し、新田畑の開発が著しく進んだ。そのため、山林原野は次第に減少し、入会地に対する縄張り意識も芽生えてきた。入会地があり余っていた時には、最寄りの村々はそれぞれ都合の良い手近な場所を独占的に利用できたが、入会地が不足してくるとそれが争いのもとになる。
※「この時代」は幕末


資料4 里地里山と都市との自然資源の共同管理にかかる整理
●入会について
一定地域の住民の団体(村落)が、生産・生活に必要な物資を得ることを目的に特定の山林原野等(入会地)に立ち入る慣習を一般に入会といい、入会地を共同で管理し利用する権利を入会権という。
入会は、地域の資源を地域住民が共同で管理するというコモンズの核心が制度化されたもの※2といえる。

土の古文書「その5 入会山争論(1)」
 解説
「入会」とは一村または複数の村の人々が一箇所の山林、原野、河川敷などを共同で利用することをいい、その土地を「入会地」といいました。
「入会地」は萱山、秣場(山)などとも呼ばれ、家畜の飼料、田畑の肥料、食料にする山菜、屋根に使う萱、燃料の薪炭、道や橋の用材等、村人が生活のために、そこから得ていたものは実に多彩でした。殊に、当時の農業は、草を刈り取って畑に敷き込む「 刈敷 (かりしき)」(当地方ではカッチキ、またはカッポシと言った)が主な肥料でした。

5分でわかる!惣
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