妙見島の「妙見」を調べ始めたら、やっぱり話が長くなった件について

 『クラナリ』でたびたび取り上げた、旧江戸川の妙見島。

妙見島(Googleマップより)


 現在の住所は東京都江戸川区東葛西3丁目ですが、1894(明治27)年まで、住所は千葉県東葛飾郡南行徳村(当時)の字前野及妙見島でした。

 つまり、千葉県市川市と縁もゆかりも深い島なのです。

 そんな妙見島の「妙見」について調べ始めたら、紀元前2000年に馬車でインドやヨーロッパなどに移動した「アーリア人の大移動」で有名なアーリア人までさかのぼることになったという話です。


 話は、人類と夜空の星から始まります。

  北極星は、地球の自転軸(地軸)の延長線にあるので、真北にあって動かない星です。そんな北極星を中心に、反時計回りにたくさんの星が回っているように見えます。このような星の動き(日周運動)は、地球の自転によるものです。



 夜空の星と星を結んで、物語の登場人物などの形に見立てたものが星座。紀元前3000年のメソポタミアが起源とされています。



 古代メソポタミアでは、月の満ち欠けをもとにした太陰暦を採用し、また、太陽の軌道(黄道)の近くにある星座を重要視したようです。天体の動きで未来を予言する、いわゆる星占いも行われていましたが、私が調べた限り、北極星を重視したという記述は見つかりませんでした。


 ちなみに当時(今から5000年前)の北極星は、りゅう座のアルファ星のツバンで、現在のこぐま座のアルファ星のポラリスではありません。
 地球にはほかの星の引力が働くため、地軸が動きます。これは歳差(さいさ)運動と呼ばれています。地軸の延長にたまたまあるのが北極星なので、歳差運動で北極星は変わっていくわけです。


 古代メソポタミアが太陰暦である一方、古代エジプトでは太陽暦が使われていました。日本時計協会の資料が非常にわかりやすいので、一読をお勧めします。

■1年が約365日だと発見したのはどこの人?

 紀元前2500年に建設されたクフ王のピラミッドは、当時の北極星であるりゅう座のアルファ星のツバンを利用して、ピラミッドの一辺を真北に向けたのだと考えられています。
 とはいえ、「古代エジプトで北極星信仰があった」ともいえないらしく、データがヒットしたのはテレビ番組の1件だけでした。

■歴史冒険ミステリー 世界のピラミッド徹底解剖!!


 いくつかの資料で、北極星信仰は中央アジアの遊牧民が行っていたと記述されています。
 中央アジアの遊牧民といえば、アーリア人。紀元前2000年に馬車でインドやヨーロッパなどに移動した「アーリア人の大移動」で知られています。

 アフガニスタンを経て紀元前1500年前後にインド亜大陸に進出したアーリア人のグループは、インド大陸に先住していたドラヴィダ人のインダス文明が消滅した200年~400年後、紀元前1500年にガンジス川流域に定住し始めました。
 
 インドに定住したアーリア人の宗教が、バラモン教です。成立は、紀元前1000年とされているようです。バラモン教の宗教讃歌『ヴェーダ』には含まれない文献に、神話などを集めたプラーナがあります。プラーナに、北極星を神格化したドルヴァ(ドゥルヴァ)という少年が登場するそうで、ここからアーリア人には北極星信仰があったのではないかと考えられなくもありません。

 さておき、紀元前500年に、インド北部にあった十六大国の一つのコーサラに属していた小国のカピラの王子シッダールタ、後のゴータマ・ブッダこと釈迦が仏教を開きました。
 仏教に北極星信仰が盛り込まれて(?)、紀元前200年に最初に中国に伝わったと考えられます。もちろん、人々の交流があるので、その後も仏教は中国に入ったのでしょう。

 仏教における菩薩とは、サンスクリット語のボーディ・サットヴァに由来し、「悟りを求める人」という意味。当初は釈迦菩薩だけでしたが、紀元前後に誕生した大乗仏教が発展して、多くの菩薩がいると考えられるようになったのだそうです。


 すでに古代中国では、民間信仰に老子(紀元前600年)や荘子(紀元前600年)の思想が取り込まれた道教がありました。道教で北極星は「北辰(ほくしん)」と呼ばれていました。そして万物を支配する「北極紫微大帝(ほっきょくしびたいてい)」として崇拝されていたとのこと。
 加えて、紀元前400年に成立した『論語』には「子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之」とあり、これは北極星信仰とはいえない気がしますが、北極星が重視されていたからこその発言なのかなとも思えます。


 317~420年に成立した『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』に次の記述があります。

我北辰菩薩名曰妙見。今欲說神呪擁護諸國土。所作甚奇特故名曰妙見。處於閻浮提。眾星中最勝。神仙中之仙。菩薩之大將。光目諸菩薩。曠濟諸群生。

(我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見と曰ふ。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す。所作甚だ奇特なり、故に名づけて妙見と曰ふ。閻浮提に処し、衆星中の最勝、神仙中の仙、菩薩の大将、諸菩薩の光目たり。広く諸群生を済ふ。)

 インドから入ってきた大乗仏教の菩薩と、中国の道教の北極星信仰が混じり合って、妙見菩薩ができたようです。妙見菩薩は甲冑を着けて剣を持ち、唐の時代(618~907年)に武闘の神「妙見天」とも呼ばれていました。

 日本に仏教が伝わってきたのは538年で、百済の聖明王の使者が仏像と経典を持ち込みました(『日本書紀』では552年)。その前には中国で生まれた陰陽五行説などが、その後には暦本や天文、地理書、遁甲、方術書が、やはり百済から日本に入ってきました。聖徳太子が活躍した時代です。

 天皇制を確立するために、北極星(北辰、妙見)信仰は取り入れられ、時代が下るとともに貴族や武士も北極星を崇拝するようになりました。
 
 その中に、桓武天皇の子孫である平良文(たいらのよしふみ)が始祖の千葉氏がありました。平良文は平安時代の中期の武将で、関東で勢力を伸ばしました。

 妙見が示現したのは、承平元年(九三一)、良文と将門が結んで上野国に攻め入り、上野国府中花園の村の染谷川で国香の大軍と衝突して七日七夜にわたり合戦をくりかえし、わずか七騎にまで打ち破られ、良文も落馬に及ぶありさまであったが、そのときに童子(金色の光ともいう)となって示現した妙見菩薩は、敵の頭上に剣の雨を降らせ、残った七騎はさんざんに切り勝った(註33)。
 良文・将門の七騎が勝利のあと、たずねあるくと、童子となって示現したのは府中の七星山息災寺の妙見菩薩であった。童子となって良文を守護したのは、ここの妙見なのであった。このとき以来、この妙見は良文の弓箭神として尊信をうけ、千葉妙見は、この妙見を戦勝の妙見として祭ったのがはじまりである。



 平良文が妙見菩薩を信仰したことから、千葉県内には妙見堂など妙見信仰と関わりの深い建造物が数多くありそうですが、市川市内では、中山の法華経寺の境内に妙見堂、大野に妙見神社、そして曽谷の長谷山安国寺の境内に妙見堂がネット検索で見つかりました。3カ所とは、ちょっと少ない印象です。

 冒頭で紹介した旧江戸川の妙見島については、南北朝時代の1362年に、この島に妙見堂が建立されたという記録があり、妙見堂が名前の由来になっているとのこと。やはり千葉氏が建てたのでしょうね、きっと。

■主な参考資料
千葉市 千葉氏ポータルサイト

『図説 メソポタミア文明』編著/前川和也  河出書房新社

『メソポタミア文明入門』著/中川一郎 岩波書店

2 妙見信仰の源流

千葉氏と妙見信仰
 千葉氏はその祖、平良文以来その守護神として妙見菩薩を厚く信仰し、その一族、従臣もまたそれぞれの居住地に必ず妙見菩薩を祀っている。妙見菩薩は北辰菩薩ともいわれ、北辰すなわち北極星および北斗七星を神格化したもので、護国、災疫(えき)消滅、招福長寿に霊験があるとされるが、千葉氏が語り伝える霊験譚によれば、合戦において窮地に追い込まれた時には、必ず妙見菩薩の化(け)身が現われて危難を救ってくれることになっている。

千葉氏と北辰(妙見)信仰

第二章 日本における天皇と北辰祭祀

ドルヴァ

国立科学博物館

妙見信仰について

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