「食うか、食われるか」の資本主義経済で生きる、市川市民の私 『やりなおす経済史』
現在、トランプ・ショックで株価が乱高下し、ニュースサイトをにぎわせています。海を隔て遠く1万km離れた国の政治の動きも、市川市内の出来事も、ニュースとして同時に受け取っているわけですが、どうしてこんな生活を送ることになったのでしょうか?
理由を知りたくてさまざまな情報に当たり、今回も素人なりにまとめてみました。
最も参考にしたのは『やりなおす経済史』(著/蔭山 克秀、ダイヤモンド社)で、著者のネット記事も数多く読みました。そのほか、定番のWikipedia、大崎匠の温故知新「バブル史」も読んでいます。
世界経済の中心が、イギリス、アメリカ、アメリカ&ソ連、中国と動いていき、混乱のまっただ中で、「ああ、こんなにも振り回されている私がかわいそう」と被害者ぶらずに、「なるほど、『歴史は繰り返す』とはこのことか」としたり顔で乗り切っていけそうな気がしないでもありません。
水面下では、他国との損得勘定、壮絶な足の蹴り合いだ。みんな平気で弱い国から奪い、同盟国を裏切り、他国に責任をなすりつけ、「そんな約束したっけな?」とすっとぼけ、強い国に群がって食い残しを漁ろうとする。そこは表の世界とは裏腹に、まあ本当に醜い世界だ。でも、そんな世界もある方が、ほっとするし楽しい。逆に聖人君子しかいないような清らかな世界があるなら、その方がよっぽど怖い。そこは天国という名の地獄だ。なぜなら、人間も競争社会で弱肉強食を宿命づけられた他の動物同様、利己的で欲深き生き物なのだから。そして、競争社会で生きる我々がそんな生き物だとするならば、孔子や孟子みたいな聖人君子よりも、腐海でしか生きられないようなドロドロの祟り神みたいな水面下のキャラの方に、僕はよっぽど愛着とシンパシーを感じる。
以下の時代区分は、『やりなおす経済史』をもとにしています(少々変更も)。図については、出典を明記していないのはすべてWikipediaです。
〜1300年代 封建制(全世界的)
1300年代~ 重商主義(ヨーロッパ)
1700年代〜 自由放任経済(イギリスを中心としてヨーロッパ)
1800年代〜 帝国主義と恐慌とブロック経済(ヨーロッパ、アメリカ)
1940年代後半~ 戦後復興と冷戦(アメリカ、ソ連)
1960年代~ 固定相場制の崩壊(アメリカ、日本、西ドイツ)
1970年代~ オイル・ショックと新自由主義(アメリカ、イギリス、日本)
1990年代~ ニューエコノミーとリーマン・ショック(アメリカ)
2000年代 BRICSの台頭(特に中国)
封建制
封建制とは、土地を通じて結ばれた主従関係で、権力者(領主)が領地(荘園)を領有し、領地を農民に耕作させて、税(年貢)を納めさせる仕組みです。 日本では鎌倉時代から江戸時代まで続き、武家社会を支えました。領主にとって、農民は家畜のような存在で、農民は領主から保護されますが、田畑の勝手な売買は禁止され、国境には農民の逃亡を防ぐ仕組みとして関所が設けられていました。
ヨーロッパの封建制は1300年代まで続きました。
もともとは、領主が王から土地を借り、領主が王のために軍事奉仕を行うという仕組みでした。領主は貴族や教会などで、イギリスの貴族の爵位は、公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成ります。
もともとは、領主が王から土地を借り、領主が王のために軍事奉仕を行うという仕組みでした。領主は貴族や教会などで、イギリスの貴族の爵位は、公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成ります。
その後、不輸不入権 (インムニテート、土地が税金の対象とならない権利と荘園内への立ち入りを禁止する権利)を王が認めたために、徐々に私領化が進みました。そして荘園は、領主が支配する独立国家のようになっていきました。
原初の封建制は、農業中心の自給自足で、商品経済は栄えませんでした。経済は年貢で成り立つため、貨幣経済も必要ありませんでした。
ところが、生産力が向上して余剰生産物が生まれると、他のものと交換したいと考えるようになります。
そして、商品交換の場として、都市が生まれます。11世紀以降、都市では商工業者の同業者組合(ギルド)が発達します。
そこへ貨幣経済が入ってきます。
ところが、生産力が向上して余剰生産物が生まれると、他のものと交換したいと考えるようになります。
そして、商品交換の場として、都市が生まれます。11世紀以降、都市では商工業者の同業者組合(ギルド)が発達します。
そこへ貨幣経済が入ってきます。
貨幣経済が入るきっかけが、1095~1270年の十字軍の遠征です。キリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒から取り戻そうと、ローマ教皇ウルバヌス2世がセルジューク・トルコに対して戦いを仕掛けたのです。
計7回実施されましたが、ローマ教皇側の聖地奪回は失敗しました。ただヨーロッパとアジアの交易拡大につながりました。
遠隔地との商取引で物々交換は非効率的です。そのため、貨幣経済が発展したのです。
計7回実施されましたが、ローマ教皇側の聖地奪回は失敗しました。ただヨーロッパとアジアの交易拡大につながりました。
遠隔地との商取引で物々交換は非効率的です。そのため、貨幣経済が発展したのです。
![]() |
十字軍(Wikipediaより) |
さらに、封建領主と教会が没落しました。11〜13世紀の教会は、ヨーロッパ最大の封建領主であり、各国の国王も逆らえないほどの権威を確立していました。その教会が呼び掛けた十字分の遠征が失敗したことで、ヨーロッパの封建制は再編され、各国の国王が武力を使って強引に国内統一を進めていくようになります。こうして、絶対王政が誕生します。
重商主義
絶対王政とは、王に無制限・無制約の権力が集中する政治体制です。 封建制では、「王」といっても、数ある封建領主の中の一人でした。しかし、十字軍の遠征の失敗を機に、疲弊した領主たちから王に権力が移譲され、中央集権化が進んでいきました。
さらに、十字軍の遠征でアジアとの交流が生まれ、貨幣経済と貿易が盛んになり始めました。
こうした流れで、絶対王政が成立しました。イギリスではテューダー朝のヘンリー7世(在位1485〜1509年)に始まり、エリザベス1世(在位1558〜1603年)で最盛期を迎えました。
こうした流れで、絶対王政が成立しました。イギリスではテューダー朝のヘンリー7世(在位1485〜1509年)に始まり、エリザベス1世(在位1558〜1603年)で最盛期を迎えました。
![]() |
アンリ4世 |
![]() |
ルイ14世 |
絶対王政の王権は強大です。そのため、多くの人が王の座を狙い、権力闘争が激しく行われました。
絶対王政を思想的に支えたのは、王の権力は神から授かったとする王権神授説です。それに加え、官僚制と常備軍が権力を守りました。
官僚と軍隊の維持には莫大な費用がかかりました。年貢だけではとても足りないので、財源確保のために考え出されたのが、重商主義です。重商主義とは、絶対王政期にの経済政策で、初期を重金主義、後期を貿易差額主義と呼びます。
官僚と軍隊の維持には莫大な費用がかかりました。年貢だけではとても足りないので、財源確保のために考え出されたのが、重商主義です。重商主義とは、絶対王政期にの経済政策で、初期を重金主義、後期を貿易差額主義と呼びます。
重金主義
重金主義は、鉱山開発や植民地の獲得によって金銀を採掘し、貨幣を増やすことを目指しました。しかし、金山はそう簡単に見つかるものではなく、また金山を持つ国を植民地にするのも現実的ではありませんでした。そのため、重金主義は次第に廃れていきました。
貿易差額主義
貿易差額主義の特徴は、以下の3つです。
〇輸出を増やすため、特徴ある産業を保護・育成する
〇輸入を抑えるため、高関税(保護貿易)政策を採用する
〇原材料を安価に安定供給するため、植民地を拡大する
〇輸出を増やすため、特徴ある産業を保護・育成する
〇輸入を抑えるため、高関税(保護貿易)政策を採用する
〇原材料を安価に安定供給するため、植民地を拡大する
関税は、古代都市国家での手数料がルーツで、一国の領土内における地域間を移動する貨物に課す内国関税、他国からの貨物に課す国境関税などがあります。
王は、特定の商人団にだけ貿易の特権を与え、彼らが得た莫大な利益を後から徴収する仕組みを作りました。要は、えこひいきです。ひいきされた商人団が特許会社で、その代表格が東インド会社です。
東インド会社は、1600年にイギリスのエリザベス1世から特許状を受けて設立されたもので、1874年に解散しました。香辛料や綿布、絹織物、茶などをアジアからヨーロッパに運び、大きな利益を上げました。
東インド会社は、1600年にイギリスのエリザベス1世から特許状を受けて設立されたもので、1874年に解散しました。香辛料や綿布、絹織物、茶などをアジアからヨーロッパに運び、大きな利益を上げました。
貿易差額主義を理論面で支えたのが、イギリスの東インド会社重役で『外国貿易によるイングランドの財宝』(初版1664年)を著したトーマス・マンと、フランスでルイ14世の大蔵卿を務めたジャン=バティスト・コルベールです。フランスでは、貿易差額主義をコルベール主義と呼ぶこともあります。
![]() |
トーマス・マン |
![]() |
ジャン=バティスト・コルベール |
オランダは1602年、フランスは1664年に東インド会社を設立し、強大な軍事力を背景に、植民地経営や他国との抗争にも関わりました。
なお、スペイン領だったオランダは1568年に独立戦争を始め、1648年に独立が認められます。そのため、絶対王政の時代はありませんでした。
オランダでは、東インド会社(VOC、Vereenigde Oostindische Compagnie)ができた年(1602年)に、世界初の証券取引所が誕生しました。その経緯が、東証マネ部で次のように説明されています。
株の売買自体は13世紀頃から始まっていたようだが、当時の株主には“無限責任”が課され、企業で事故や問題が生じた際に出資額以上の補償を請求された。そのため、出資者は家族や同族が一般的だったという。そんななか、VOCは“有限責任性”を取り入れ、株主が出資額以上に失わない仕組みとした。そのため、株を買いやすくなり、売買が活発化し、VOCの株取り引きのため、アムステルダム証券取引所が設立された、というわけだ。
後にアムステルダム証券取引所では株式に限らず、商品、為替、海上保険など、あらゆる金融商品が取り引きされた。しかも、株式に関しては当時から信用取引やオプション取引も存在していたというから驚きだ(1612年にオランダ政府はオプション取引を禁止とした)。
そして、オランダの東インド会社の設立に関わった商人のイサック・ル・メールが、歴史上初めて、株の空売り(信用取引の1つ、ショート、株式を借りて市場で売却し後で市場で買い戻すことで利益を得ようとする、株価が下落すると利益が出るが上昇すると損失が発生する)を行っています。
この頃、バブルが発生します。
「人類初のバブル」とされるのが、1637年にオランダで起こったチューリップ・バブル。
1618~1648年、三十年戦争が起こります。これは、宗教戦争で、ドイツでの宗教的対立にヨーロッパ各国が介入したものでした。
ただ、オランダは三十年戦争の影響をあまり受けず、アムステルダムが商取引の中心地として繁栄していました。資金がだぶついている状態だったのです。
オスマントルコからヨーロッパに入ってきたチューリップが、富裕層の間で人気となりました。ブームは中産階級まで広がり、人々は「チューリップを買うのに、金をどれだけ注ぎ込んだのか」を競い合うようになっていきます。珍しい品種の球根は、1億円に相当する高値で取引されたこともあったとのこと。「この球根はもっと値上がりする!」と人々は期待し、球根を買い求めました。投機の対象になったのです。
しかし、1637年2月2日、誰も球根を買わなくなり、価格は暴落しました。連鎖して売り注文が続出し、価格は急激に下がり始めました。このようにして、チューリップ・バブルははじけて、オランダ経済に深刻なダメージを与え、球根を高値で買った人たちは大損しました。なお球根を買わなくなった最初の原因は、わかっていません。
1720年には、フランスでミシシッピ・バブルが発生します。
太陽王と呼ばれたルイ14世の時代、戦争や王族の浪費で、財政赤字が増大しました。1715年にルイ14世が亡くなり、甥のオルレアン公フィリップが摂政となりました。
この摂政に取り入ったスコットランド人ジョン・ローが、アメリカのルイジアナとの貿易独占権を持つ株式会社ミシシッピ会社を設立するというのが「ミシシッピ計画」でした。当時、ルイジアナはフランスの植民地で、誰からも見放されていた荒れ地でした。
1717年8月、ローが、当時はミシシッピ会社の経営権を入手し、西方会社と名を改めました。
1719年に西方会社は、東インド会社、中国会社、その他のフランスの貿易会社を併合してインド会社となりました。さらに、ローが1716年に設立した王立銀行もインド会社の所有になりました。
ミシシッピ計画の内容と高配当(年間40%を約束)に熱狂し、国民、貴族、議員までもが株式投機に熱中します。インド会社(ミシシッピ会社)の株価はどんどん高騰し、発行株式を求めた人々が、ローの自宅付近に群がったそうです。ローは株をたくさん発行し、株を買うための資金を王立銀行から貸し出しました。
1719年にインド会社株(ミシシッピ会社株)に対しての熱狂的な投機買いが起こり、株価は500リーブルから1万リーブルまで高騰した。
しかし、株式売買が活発になりすぎて紙幣の増刷が必要になったとき、政府が安直に不換紙幣(金銀との交換保証のない紙幣)を乱発したせいで、貨幣の信用そのものが崩れてしまいます。そのためにインフレが起こり、フランスで紙幣を持とうとする人がいなくなってしまいます。そして1720年の夏にかけて急激な信用不安が起こったため、摂政はローを解任し、ローは亡命しました。
![]() |
ジョン・ロー |
イギリスは、スペイン継承戦争(1701~1713年)など度重なる戦争で、政府は債務危機にあえいでいました。一方、市民は金持ちになっていたのに、投資機会が不足していました。
国の財政危機を救うため、1711年にイギリスで政治家のロバート・ハーレーが南海会社を設立させました。国債の一部を南海会社に引き受けさせて、貿易による利潤でそれをまかなおうとしたのです。スペイン領アメリカ(中南米)から奴隷や黄金を輸送する貿易ルートの独占権を、南海会社は政府から認められていました。
情報操作により南海会社の株価が急騰すると、似たような株式会社がたくさん現れ、イギリスは投棄ブームとなりました。投資家から資金を集めるだけの実体のない株式会社が乱立し、1719年から1720年の1年間で約190社が無許可で設立されました。ただ、実体のない株式会社だったため、資金を集め終わると経営者は会社を畳んで行方をくらませました。設立された約190社のうち、1年後も存続していたのはわずか4社で、泡のように消えた企業は泡沫(bubble)企業と呼ばれました。
そして1720年、南海会社の株が暴落します。
当時の政権首脳部たちは南海会社から裏献金を受け取り、国王ジョージ1世の愛人が南海会社との資金の受け渡しの窓口になっていました。
なお、ロバート・ウォルポールは南海泡沫事件を収拾させ、後に首相となります。
![]() |
ロバート・ウォルポール |
こうしたバブルの後には、各国の経済は不況期に入ります。
注目すべきことは、バブルがはじけたあとに長期不況がやってくることです。南海泡沫バブルでも、オランダ・チューリップ・バブルでも、アメリカ資産バブルでも、その崩壊後に長期不況がやってきています。
その理由を一言で言えば、「資産バブルと長期不況は同じ現象だから」ということになります。
成熟社会においては、人々の興味が消費から資産に移ることを説明しました。資産選好が強くなる、ということです。こうなると人々は、所得のほとんどを資産に積み増すようになります。この状況では、資産価格は必然的に高騰していきます。例えば、人々がこぞって、所得で消費財を買うのではなく、株を買おうとすれば、株価はどんどん上昇します。
しかし、資産価格があまりに高騰すると、人々は資産の信用性に疑いを持ち始めます。こうなった瞬間、バブルの崩壊がやってきます。人々は我先にと資産を手放そうとするからです。これがバブル崩壊のメカニズムです。
バブル膨張とバブル崩壊のメカニズムが資産選好から来ることを理解すれば、バブル崩壊後に長期不況が到来する理由もわかります。それは、バブルの源泉であった資産への信頼が崩れたため、人々は「際限ない金持ち願望」を満たすために別の標的を求め、それが貨幣になるからです。
人々は資産選好を貨幣保有から満たそうとします。貨幣は政府が後ろ盾になっているので、最も信頼性の高い資産だからです。すると、人々は所得を消費ではなく、貨幣保有にまわします。このことはモノが売れない状態を生み出し、物価の下落をもたらします。これがデフレーションです。
デフレーションとは物価の継続的下落ですから、これを裏側から見れば、貨幣の価値の継続的な上昇ということになります。これはまさに「貨幣のバブル」と呼ぶべき状況です。つまり、長期不況とはバブルの変種であり、強い資産選好のもたらす災いなのです。
『シン・経済学 貧困、格差および孤立の一般理論』著/小島博之 帝京新書
バブルや不況などあったものの、重商主義のおかげで商品経済が発展しました。同時に、その流れの中で資本家と労働者が誕生しました。
イギリスの貿易の中心は毛織物で、その原材料は羊毛でした。しかし、イギリスは小さな島国なので、羊を飼う土地が不足していました。そこで地主(ジェントリー)が農民から強引に農地を没収し、柵で囲って羊を飼い始めました。これが、囲い込み運動(エンクロージャー)です。
バブルや不況などあったものの、重商主義のおかげで商品経済が発展しました。同時に、その流れの中で資本家と労働者が誕生しました。
イギリスの貿易の中心は毛織物で、その原材料は羊毛でした。しかし、イギリスは小さな島国なので、羊を飼う土地が不足していました。そこで地主(ジェントリー)が農民から強引に農地を没収し、柵で囲って羊を飼い始めました。これが、囲い込み運動(エンクロージャー)です。
囲い込み運動により、土地を失った農民たちは、自分の労働力を売るしかなくなり、労働者へと転化しました。そして彼らは毛織物工場での工場制手工業(マニュファクチュア)に吸収されていきました。
こうして、囲い込み運動は労働者階級を誕生させると同時に、工場という生産手段を所有する資本家階級も生み出しました。この資本家と労働者が誕生する流れを、「資本の本源的(原始的)蓄積」といいます。
イギリスの産業革命は、毛織物や綿織物といった繊維産業から始まりました。
〇1733年 ジョン・ケイが飛び杼(とびひ、手織機に糸を自動的に通す道具)を発明
〇1764年 ハーグリーブズが紡績機を改良し、ジェニー紡績機を発明
〇1771年 アークライト:水力紡績機を発明
〇1779年 クロンプトン:ミュール紡績機を発明
こうした発明により、生産形態は工場制手工業(マニュファクチュア)から工場制機械工業へと変化していきました。
ここに1765年のワットによる蒸気機関の改良、さらに19世紀中盤の鉄道や蒸気船などの交通革命が加わり、さまざまな産業に産業革命は展開していきました。
産業革命を支えた資本家は、富裕な市民階級でブルジョアジーと呼ばれました。彼らの出自は、地主、独立自営農民、手工業者、商人などさまざまでした。
イギリスでは1642~1649年のピューリタン革命(清教徒革命)、1688~1689年の名誉革命で、絶対王政が終焉しました。
また、蒸気船が開発され、海上輸送が発展していきました。世界初の蒸気船の実用化といわれているのは、1783年にフランスで、ボート両船舷の水かき車輪(外輪)を蒸気機関で回し、川を15分航行したことです。1807年には、アメリカでロバート・フルトンが、ハドソン川で外輪蒸気船のクラーモントの営業航海を行いました。
自由放任経済
絶対王政だった18世紀のフランスでは、フランソワ・ケネーなどが重商主義を批判し、重農主義を主張しました。ケネーは1758年に『経済表』を刊行し、この本に経済循環の図式を掲載しました。
![]() |
『経済表』 |
重農主義は、文字どおり農業を重視し、土地や自然資源を最大限活用すること、そして王が貿易や商業活動に関与すべきではないとする考え方です。重農主義のキャッチコピーのようなものが「レッセフェール(laissez-faire)」で、フランス語で「なすに任せよ」という意味です。
このレッセフェールは、イギリスのアダム・スミスに影響を与え、スミスは自由放任経済を提唱しました。1776年に出版した『国富論』では、自由競争によって「見えざる手」が働き、最大の繁栄がもたらされると主張しています。
![]() |
アダム・スミス |
資本家は自由放任経済を求め、イギリスは本格的な自由競争の時代に突入していきました。
1816年にイギリスで金本位制が始まります。これは、金を本位通貨として紙幣の価値の安定を図る通貨制度で、貨幣法に基づいてソブリン金貨が発行されました。金本位制を採用している国の通貨(兌換紙幣)は、銀行に持って行くと、何グラムかの金と交換されます。
金本位制が生まれた背景は、世界貿易の拡大とともに、イギリスが他国通貨を受け取る機会が増えてきたことです。
また、イギリスは1607年の北アメリカのヴァージニア植民地を皮切りにカナダ、インド、アフリカなど植民地として支配していきます。イギリスは植民地を市場として活用し、自国の製品を売りつけたり、原料を仕入れたりすることで利益を得ました。
つまり、こうした貿易でイギリスが損をしないために、「世界共通の価値が認められる金と通貨の交換を、各国が保証することにしよう」と金本位制が出来上がったわけです。
自由放任経済のもと、イギリスは自由貿易か植民地化を他国に迫りました。
また、植民地とイギリスとの対立も起こりました。1775年から1783年にかけてのアメリカ独立革命では、アメリカ植民地がイギリスと戦い、独立を勝ち取りました。
アメリカはヨーロッパ各国からの干渉を嫌い、1823年には大統領のジェームズ・モンローが相互不干渉主義(モンロー主義)を掲げました。
![]() |
アメリカ独立革命 |
1837年、アメリカの発明家サミュエル・モールスは、モールス信号を発明しました。 1844年にはこの技術を用いて文章を送ることに成功します。 電信のスタートです。
イギリスは世界最大の海運国家として海運をコントロールするとともに、世界の電信の大半を敷設しました。1851年には、ロンドンとパリの間に海底ケーブルが敷設されます。
世界の多くの商業情報はイギリス製の電信を伝わって流れました。イギリスは世界の情報の中心となったばかりでなく、さまざまな経済的利益を得ました。世界の貿易額が増えれば増えるほど、送金はロンドンで決済されることになり、そのため手数料収入が増加しました。海運と電信によりイギリスは、世界経済のすべての活動を自国の利益にできるシステムを構築したのです。
そのためイギリスは、他地域の経済成長によって儲けを増やしたのです。
イギリスとアジアの関係については、まずインドで1857年から1859年にかけてインド大反乱が起こったものの、イギリスが勝利しました。
![]() |
インド大反乱 |
1840年から1842年のアヘン戦争では、イギリスがインドで生産させたアヘンを清(現在の中国)に密輸し、清がアヘンを処分したことを口実に戦争を仕掛けました。
アヘンを密輸した理由は、茶の需要が高かったイギリスに清への貿易赤字が生じていたからです。そのため、アヘンを清へ、清の茶などをイギリスへ、イギリスの綿織物などをインドへと運ぶ三角貿易が始めました。
「食うか、食われるか」の競争社会では、勝ち組と負け組が生まれ、失業・貧困・倒産が増加していきました。しかし、政府の役割は国防と治安の維持に限られていました。
こうした中、1848年にカール・マルクスが『資本論』を発表しました。
また、自由放任主義の国家を、1862年にドイツのフェルディナント・ラッサールは皮肉を込めて「夜警国家」と呼びました。
1871年から1874年にかけて、「1杯目のビールが一番うまい」という限界効用逓減の法則が、オーストリアのカール・メンガー、イギリスのウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、スイス(生まれはフランス)のレオン・ワルラスによって確立されました。
帝国主義とブロック経済
産業革命は2回起こりました。1回目は18世紀後半にイギリスで起こったもので、繊維などの軽工業が中心でした。2回目の産業革命は19世紀にドイツやアメリカで起こり、製鉄業や造船業のような重工業が中心でした。エネルギー源も石炭から電力・石油へと移行しました。代表的な発明は、1879年にアメリカのエジソンが実用化した白熱電球です。
第二次産業革命では、イギリスは主役から退きましたが、金融が発達しました。特にユダヤ系のロスチャイルド家の資金力は大きく、経済力で他国を圧倒していました。
1899年のボーア戦争(イギリスとオランダ系アフリカ人〈白人〉の間で南アフリカの植民地化を争った戦争)に勝利したイギリスは、カイロ・カルカッタ・ケープタウンの3つの主要植民地を拠点に「3C政策」を展開しました。他国もイギリスに追随し、帝国主義の流れが生まれていきました。
1840年から1842年のアヘン戦争に敗北した清は、欧米だけでなく日本からも注目されるようになりました。1894年から1895年の日清戦争に敗北した清は、下関条約により遼東半島を日本に割譲することになりました。
![]() |
遼東半島 |
しかし、1895年にドイツ・フランス・ロシアが日本に三国干渉を行い、遼東半島を清に返還させました。
その後、清はヨーロッパ各国、日本、そしてモンロー主義を採用していたアメリカからも狙われるようになりました。
アメリカは、1792年にウォール街が材木取引のために市場が開設され、その後、株式取引が正式に行われるようになりました。1839年には、ニューヨークでロックフェラー財閥が誕生しました。1869年には大陸横断鉄道(ユニオン・パシフィック鉄道)が開通しました。
そうした中、独占的大企業が生まれ、世論は反発しました。そのため、1890年にシャーマン反トラスト法が制定されました。これは独占禁止法です。
国内が規制されると、アメリカは海外へと進出しました。セオドア・ルーズベルト大統領はカリブ海政策を強引に推進し、「棍棒外交」と呼ばれました。
![]() |
棍棒外交 |
また、ウィリアム・タフト大統領の「ドル外交」は「弾丸にかえてドルで」というスローガンのもと、経済力によって中南米やアジアの市場の開拓を促しました。
アメリカと同時期に植民地政策を進めていたのが、日本です。
1904年から1905年にかけて日露戦争が勃発しました。勝利した日本は列強の一員となりました。
1905年には日英同盟の改定、1907年には日仏協約と日露協約を結びました。これらは、植民地の範囲を確認するための協定と承認であり、アメリカは外されていました。
こうした流れの中で、新興国同士の日本とアメリカは衝突し始めました。
日露戦争に敗れたロシアは、満州の北半分に勢力を残しつつ、汎スラブ主義を掲げてセルビアやブルガリアと組み、バルカン半島に南下しました。
汎スラブ主義とオーストリアが衝突し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる緊迫した状態になりました。
1912年にバルカン戦争が勃発し、汎スラブ主義の国々が勝利したものの、領土分割で仲間割れが起こり第二次バルカン戦争が発生しました。その結果、ブルガリアはドイツやオーストリアの汎ゲルマン主義へと接近しました。
ここでドイツは、ベルリン・ビザンティウム・バグダッドを結ぶ「3B政策」という植民地政策を取りました。イギリスの3C政策と直接的には衝突しないものの、イギリスとドイツは勢力争いを強めていくことになります。
そして1914年に第一次世界大戦が始まりました。
日英同盟を口実に、日本は参戦しましたが、実際には中国や南太平洋諸島でドイツの利権を横取りしようとしました。
アメリカについては、三国同盟・三国協商の双方に対して軍需物資をどんどん売りつけていました。
しかし、ドイツの潜水艦が無差別攻撃を始め、自国の商船が撃沈されただけでなく、お金を貸し付けていたイギリスとフランスが敗北する可能性も出てきたため、1917年にアメリカも参戦しました。
その結果、1918年にドイツが降伏し、第一次世界大戦は終結しました。
戦後復興と米ドル本位制
1919年、27カ国も参戦した第一次世界大戦の講和条約として、ベルサイユ条約が締結されました。ドイツは戦後賠償として、海外の領土と植民地をすべて奪われた上、軍隊の縮小、徴兵制の廃止、武器弾薬の保有には砲弾数や銃の種類に至るまで制限が設けられ、毒ガス・戦車・潜水艦などは研究すら禁止されました。そして1320億金マルク(金本位制下でのマルク紙幣、ドイツのGNPの20年分)の賠償金が課せられました。ドイツが賠償金の支払いを渋ると、1923年にフランスからルール地方を占領されました。ルール地方は、ヨーロッパ最大の炭鉱がある、ドイツの重要な工業地域です。
賠償金の支払いのため、ドイツはマルク紙幣を膨大に増刷し、その後、とてつもないハイパーインフレーションに苦しめられることになりました。どんどん高額のマルク紙幣・貨幣を発行せざるを得なくなり、ついには1兆マルク銀貨、100兆マルク紙幣なども登場しました。
![]() |
貨幣博物館常設展示図録より |
第一次世界大戦中、日本は清におけるドイツ権益を手に入れ、欧州列強が留守にしたアジア市場を独占したおかげで製造業や造船業を中心に活況となり、成金が生まれました。
ただ、第一次世界大戦が終わる直前の1917年、シベリア出兵による米需要の増加を見越した買い占めや売り惜しみで米騒動が起こりました。
戦後は工業製品の輸出が目に見えて減り、1923年には関東大震災が発生しました。そのため、不況が深刻になっていきました。
これに対して、同じく新興国のアメリカは、経済が絶好調でした。第一次世界大戦中に三国同盟・三国協商の双方に軍需物資を売り、戦後、世界一の債権国になっていました。
さらに、大戦中、戦火を逃れた欧州移民が労働者になったことで、労働力が増強したのです。
さらに、大戦中、戦火を逃れた欧州移民が労働者になったことで、労働力が増強したのです。
戦後は復興物資を販売し、アメリカにどんどん富が集中しました。株式市場も発達し、世界の工業生産の4割と世界の金の44%を保有していました。
こうして1920年代には「黄金の20年代」と呼ばれる繁栄期を迎えました。住宅や自動車も飛ぶように売れました。
イギリスは、戦争被害と戦時中の産業停滞などが影響し、不況ムード一色となり、失業率が悪化し、労働者のストライキが頻発しました。政治では労働党が躍進し、保守党(元トーリー党)・自由党(元ホイッグ党)の二大政党制だったイギリスは、保守党と労働党の二大政党制になったのです。こうして、年金や失業保険など社会保障が充実し始めました。
ロシアは、第一次世界大戦終盤の1917年にロシア革命が起こり、ロマノフ王朝が倒れたため、三国協商から離脱。1922年に史上初の社会主義国家であるソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生しました。
周辺国は、社会主義の拡大を恐れてソ連に攻め込みました(日本のシベリア出兵など)。そのため、ソ連は戦争と社会主義国家の建設に全力を注ぐことになります。
![]() |
ウラジミール・レーニン |
第一次世界大戦で戦場となったフランスは荒廃し、ロシアに貸した資金はロシア革命によって不良債権になりました。その上、ドイツは賠償金の支払い延期を求めてきました。
1926年に発足したレイモン・ポアンカレ内閣は、財政再建とフランの切り下げを行いました。フランを切り下げてフラン安になると、輸出の際にフランスの製品の価格が下がるので有利になります。
![]() |
レイモン・ポアンカレ |
ドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいたイタリアは、1915年には反対陣営の三国協商国サイドで第一次世界大戦に参戦しました。戦勝国でも国土は戦乱で荒れ、国民の生活は困窮しました。そしてソ連から社会主義思想が流入したことで、労働者や農民の暴動やストライキが頻発していました。
経済が好調だったアメリカでは、各国の戦後復興が終わりつつあったこと、アメリカ経済の生産規模が拡大し過ぎたこと、そしてソ連が社会主義化して商品の買い手ではなくなったことで、貿易が振るわなくなりました。
アメリカ製品は世界市場で生産過剰でしたが、証券市場は過熱し続けました。どの銘柄も株価が下がらず、人々に富をもたらしました。そして豊かになった人々は住宅と自動車を求め、自動車による移動距離の拡大は住宅圏を広げ、不動産の売れ行きを伸ばしていきました。
市場は「株価は永久に上がり続ける」という楽観論に支配され、バブルが発生しました。一般市民も株式ブームに浮かれ、実体経済の規模を明らかに上回る投機資金が株式市場を暴走させていましたが、誰もそれを止められなくなっていたのです。
地価も相当に上昇していましたが、より手軽な投機対象である株価の上昇が異常で、ダウ平均は実体経済が冷え込み、生産過剰が顕著になっていた1920年代に、実に5倍にまで値上がりしていました。
そして1929年10月24日、ダウ平均が史上最高値を更新したわずか2カ月後に、相場は一気に崩壊しました。
GMの株価下落を引き金に、それまで水面下で渦巻いていた不安心理や新聞報道、大口投資家による売りが市場にパニックをもたらし、ウォール街は完全に「売り一色」となりました。そのわずか5日後には、ダウ平均は2カ月前の半分にまで下落したのです。
この大恐慌に対して、アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは自由放任主義を貫きました。その結果、恐慌は世界中に波及し、ドイツとオーストリアは賠償金の支払いに苦しむことになりました。
そのような状況下でアメリカは、1930年にスムート・ホーリー法に基づく保護関税政策を採用し、自国産業を守ろうとしました。さらに1931年には、フーヴァー・モラトリアムによりドイツとオーストリアの債務支払いを猶予しました。
スムート・ホーリー法の影響で、アメリカへの輸出に依存していた国々は、高関税によって製品が売れなくなることを避けるため、金本位制を放棄し、通貨価値を切り下げて製品を安くする「為替ダンピング」を行うしかなくなってしまいました。
1931年、イギリスが金本位制を離脱し、ポンドの価値を切り下げたのをきっかけに各国も追随し、1930年代半ばのヨーロッパは為替ダンピングだらけの状態になりました。そしてついに1937年、フランスが金本位制を離脱したことで、世界から金と交換できる通貨が完全に消滅してしまいました。
1931年、イギリスが金本位制を離脱し、ポンドの価値を切り下げたのをきっかけに各国も追随し、1930年代半ばのヨーロッパは為替ダンピングだらけの状態になりました。そしてついに1937年、フランスが金本位制を離脱したことで、世界から金と交換できる通貨が完全に消滅してしまいました。
金本位制が消滅して各国に残されたのは、為替ダンピングによるわずかなメリットと、他国通貨に対する強い不信感という大きなデメリットでした。金という絶対的な価値基準を失った各国は、他国通貨を受け取ること自体に不安を覚え、アメリカ以外の国々も保護貿易(保護関税や為替制限)を始めるようになりました。
関税が高ければ、他国はその国で商売するメリットを失い、輸入品を排除でき、自国の利益が外国に吸収されるのを防ぐことができます。また、為替制限とは通貨交換の制限、つまり例えば円とドルの交換を禁止または制限する措置のことです。たしかにこうした措置が取られれば、アメリカとの貿易そのものが不可能となり、ダンピングにおびえる必要もなくなります。
関税が高ければ、他国はその国で商売するメリットを失い、輸入品を排除でき、自国の利益が外国に吸収されるのを防ぐことができます。また、為替制限とは通貨交換の制限、つまり例えば円とドルの交換を禁止または制限する措置のことです。たしかにこうした措置が取られれば、アメリカとの貿易そのものが不可能となり、ダンピングにおびえる必要もなくなります。
こうして世界貿易は、みるみる縮小していきました。しかし、世界経済の規模は昔と比べて格段に大きくなり、今さら貿易がまったく存在しない自給自足体制に戻ることは不可能でした。
そこで登場したのがブロック経済です。ブロック経済とは、共通通貨を使う「自国と植民地の間だけ」で行われる排他的な貿易体制のことです。この体制であれば、「同じ通貨を使うエリアでのやりとり」であるため、為替リスクを避けることができます。
ブロック経済は、植民地をあまり持たない国にとって非常に不利に働きました。その結果、日本やドイツなどは植民地の再分割を求めて動き出し、それを止めようとするイギリス、アメリカ、フランスなどと衝突することになります。
世界恐慌後、外へ外へと拡張していったのは、日本やドイツでした。
一方、植民地の多いアメリカやイギリスなどは、自国と植民地のみで構成されたブロック経済圏を形成し、排他的な貿易体制を築きました。
その行きつく先は、戦争でした。
第一次世界大戦では、対岸の火事として大儲けしていた日本でしたが、その後は経済が冷え込み、世界恐慌でこれまでの利益をすべて失いました。難局を打開するためには、植民地の拡大しかないと政府は考えたのです。
軍部が台頭した日本では、1931年に満州事変を起こし、清朝最後の皇帝・溥儀を執政とする満州国を建国しました。
しかし、国際連盟が派遣したリットン調査団によりその行動は侵略行為と認定され、1933年に日本は国際連盟からの脱退を通告しました。
アメリカでは、1933年、大統領がフーヴァーからフランクリン・ルーズベルト(セオドアの甥)に代わると、自由放任主義とは真逆の「大きな政府」として、ニューディール政策を実施しました。主な内容は、次のとおりです。
〇テネシー川流域開発公社(TVA)で大々的な公共事業を実施
〇農業調整法(AAA)
〇全国産業復興法(NIRA)
〇社会保障法
〇全国労働関係法(ワグナー法)
ニューディール政策とは、イギリスの経済学者であるジョン・メイナード・ケインズの「有効需要の原理」を具体化したものです。有効需要とは、市場における需要(人々の欲求)が供給(企業の生産量)を決めるという考え方です。
ケインズの理論だと、雇用水準や生産水準は国全体の有効需要の大きさで決まるため、政府が積極的に経済に介入し、公共投資により有効需要を増やすなどの政策が有効ということになります。
ニューディール政策によって、アメリカの国民生活はひとまず安定しました。
ニューディール政策によって、アメリカの国民生活はひとまず安定しました。
![]() |
ジョン・メイナード・ケインズ |
イタリアは第一次世界大戦後、不況とインフレに苦しみ、ロシア革命の影響もあって社会主義運動が激化し、ストライキが頻発しました。
1922年、ファシスト党首ムッソリーニはクーデター(ローマ進軍)を行い、国王の支持を取り付けて首相となりました。以後20年間、イタリアはファシスト党の一党独裁体制となります。ファシスト党は反社会主義の全体主義的政党で、ナチスよりも暴力的な要素が強い政党でした。
世界恐慌後、ムッソリーニは大規模公共事業によって失業者の救済を図りましたが、資源に乏しい現状を打破するため、1935年にエチオピアへ進軍しました。国際連盟はこれに抗議してイタリアに経済制裁を科しましたが、これを抑えきれず、翌年エチオピアは併合されました。
1937年、イタリアは国際連盟を脱退します。
1922年、ファシスト党首ムッソリーニはクーデター(ローマ進軍)を行い、国王の支持を取り付けて首相となりました。以後20年間、イタリアはファシスト党の一党独裁体制となります。ファシスト党は反社会主義の全体主義的政党で、ナチスよりも暴力的な要素が強い政党でした。
世界恐慌後、ムッソリーニは大規模公共事業によって失業者の救済を図りましたが、資源に乏しい現状を打破するため、1935年にエチオピアへ進軍しました。国際連盟はこれに抗議してイタリアに経済制裁を科しましたが、これを抑えきれず、翌年エチオピアは併合されました。
1937年、イタリアは国際連盟を脱退します。
ドイツではナチス党が第一党となり、1933年にはヒトラー内閣が誕生しました。
ナチス党の目標は、ヴェルサイユ条約で課された巨額の賠償金を帳消しにすることでした。そして、その実現のために全体主義が必要であると訴えました。全体主義とは、最終的にみんなが幸福になるために、国民すべてが国家に奉仕し、国家の繁栄を目指します。世の中が平和に安定しているときであれば、そのような個人の自由のない思想は見向きもされなかったでしょう。しかし、当時のドイツには敗戦国特有の卑屈な気分と閉塞感が充満していました。そこから抜け出すためなら、人々はなにでもしたいと考えていたのです。そこに、ゲルマン民族の優越を訴え、景気回復への具体的な道筋を示し、演説と宣伝の巧みなカリスマが現れました。それがヒトラーであり、ナチス党でした。
1933年、ドイツは国際連盟を脱退し、ヴェルサイユ条約を破って再軍備と徴兵制を復活させました。そして、国民に福祉や娯楽を提供しつつ、軍需産業と公共事業を進めることで、経済力と軍事力を回復させ、大衆の心をつかんでいきました。
1938年にはオーストリアを併合し、チェコの一部も併合して、ポーランド侵攻を行いました。イギリスとフランスはそれを止めようとし、1939年に第二次世界大戦が始まりました。
ナチス党の目標は、ヴェルサイユ条約で課された巨額の賠償金を帳消しにすることでした。そして、その実現のために全体主義が必要であると訴えました。全体主義とは、最終的にみんなが幸福になるために、国民すべてが国家に奉仕し、国家の繁栄を目指します。世の中が平和に安定しているときであれば、そのような個人の自由のない思想は見向きもされなかったでしょう。しかし、当時のドイツには敗戦国特有の卑屈な気分と閉塞感が充満していました。そこから抜け出すためなら、人々はなにでもしたいと考えていたのです。そこに、ゲルマン民族の優越を訴え、景気回復への具体的な道筋を示し、演説と宣伝の巧みなカリスマが現れました。それがヒトラーであり、ナチス党でした。
1933年、ドイツは国際連盟を脱退し、ヴェルサイユ条約を破って再軍備と徴兵制を復活させました。そして、国民に福祉や娯楽を提供しつつ、軍需産業と公共事業を進めることで、経済力と軍事力を回復させ、大衆の心をつかんでいきました。
1938年にはオーストリアを併合し、チェコの一部も併合して、ポーランド侵攻を行いました。イギリスとフランスはそれを止めようとし、1939年に第二次世界大戦が始まりました。
日本は1936年に日独防共協定を締結し、1937年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まりました。そして、その中国から手を引くよう求めてきたアメリカから経済制裁を受けた後、1941年に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まりました。
戦後復興と冷戦
通貨価値の混乱による世界貿易の縮小が、第二次世界大戦の経済的な要因の一つでした。
第二次世界大戦が終わる1年前の1944年、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズで連合国通貨金融会議が開かれ、ブレトンウッズ協定が締結されました。ここで始まるブレトンウッズ体制とは国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)を軸とした国際通貨制度で、アメリカを基軸とするので「金・ドル本位制」とも呼ばれます。
国際通貨基金の役針は、次のようなものです。
〇為替政策の監視(サーベイランス)
〇国際収支の悪化した加盟国への融資
〇国際収支問題を抱える加盟国への一時的な信用供与
〇国際通貨協力を容易にする多角的支払い制度の樹立
〇外国為替制限の撤廃の支援
〇低所得加盟国への譲許的支援
〇為替政策の監視(サーベイランス)
〇国際収支の悪化した加盟国への融資
〇国際収支問題を抱える加盟国への一時的な信用供与
〇国際通貨協力を容易にする多角的支払い制度の樹立
〇外国為替制限の撤廃の支援
〇低所得加盟国への譲許的支援
戦後の1948年にはGATT(関税と貿易に関する一般協定)が結ばれます。
そんな第二次世界大戦後の世界は、アメリカとソ連が双璧を成す大国となって、冷戦が始まります。
1945年2月に行われたヤルタ会談は、アメリカのフランクリン・ルーズベルトとイギリスのチャーチル、ソ連のヨシフ・スターリンが戦後の国際秩序について話し合う首脳会談でした。
ヤルタ会談から、1989年のマルタ会談までの44年間、冷戦が続きます。
1945年2月に行われたヤルタ会談は、アメリカのフランクリン・ルーズベルトとイギリスのチャーチル、ソ連のヨシフ・スターリンが戦後の国際秩序について話し合う首脳会談でした。
ヤルタ会談から、1989年のマルタ会談までの44年間、冷戦が続きます。
アメリカは、1947年3月12日に大統領のハリー・S・トルーマンがトルーマン・ドクトリンを発表し、ギリシア・トルコへの支援を表明しました。ソ連の南下政策を防ぐための政策です。
1948年のマーシャル・プランでは、ヨーロッパ諸国を復興させるためにアメリカが経済援助計画を立てました。
1949年に、ドイツではベルリンを境に、アメリカが支持する西ドイツ(ドイツ連邦共和国)とソ連が支持する東ドイツ(ドイツ民主共和国)が成立します。
1948年のマーシャル・プランでは、ヨーロッパ諸国を復興させるためにアメリカが経済援助計画を立てました。
1949年に、ドイツではベルリンを境に、アメリカが支持する西ドイツ(ドイツ連邦共和国)とソ連が支持する東ドイツ(ドイツ民主共和国)が成立します。
この頃、アメリカでアルフレッド・ウィンスロー・ジョーンズが、世界初のヘッジファンドを立ち上げます。みんかぶでは、次のように説明されていました。
1941年にコロンビア大学で社会学の博士号を取得。この時の「Life, Liberty, and Property(生命、自由、そして財産)」という論文が米ビジネス雑誌『フォーチュン』に取り上げられ、フォーチュンの編集に携わるようになります。ここで記事を書きながら彼は、株価が欲望や恐怖といった投資家心理の予測可能なパターンに影響される、という考え方にたどり着き、自己資金4万ドルと友人から集めた資金を合わせ、都合10万ドルで金融業界初のヘッジファンド、A.W.ジョーンズを立ち上げました。1949年のことです。
日本もアメリカの経済援助を受け、1950年に始まった朝鮮戦争では軍需物資の注文を受けて、景気が回復しました。そして1955年から、高度成長期を迎えます(1970年まで)。
イギリスでは社会保障政策の充実が求められ、労働党が掲げた「ゆりかごから墓場まで」をスローガンに、出生から死亡までの生活保障が進められました。日本の社会保障制度は、イギリスをモデルにしています。
固定相場制の崩壊
アメリカの支援を受け、日本と西ドイツは経済復興を遂げました。アメリカの一人勝ちだった状況が変化してきました。
また冷戦の激化で、1960年のベトナム戦争、1962年のキューバ危機が起こります。
軍事費でアメリカのドルが海外に出ていくとともに、固定相場制(金・ドル本位制)のために金も出ていく金準備高の減少が起こります。
米ドルに不安を抱く人が金を買い、そして投機目的で金を買う人が現れ、アメリカの金準備高はどんどん減りました。
対策として、1961年に金プール制が取られました。欧米の中央銀行が保有する金をプールして、ロンドン金市場で金価格の変動を抑える制度です。
1968年には、金二重価格制となり、金に市場価格と公定価格が付くようになりました。
こうして1971年にニクソン・ショックが起こります。アメリカの大統領リチャード・ニクソンが金とドルの交換を停止したことにより、世界経済が混乱したのです。
同年の1971年12月、固定為替相場制維持を図る スミソニアン協定が結ばれました。ドルと金の交換停止を継続した上で、ドルを切り下げ、固定相場制を維持するのです。日本円については、米ドル1ドル360円から308円に切り下げられました。
1973年2月、再度のドル切り下げで固定相場制は崩壊し、変動相場制へ移行しました。 変動相場制へ移行後、ドル安・円高が急速に進んだため、日本はそれまでのように、輸出で大きな利益を得られなくなりました。
軍事費でアメリカのドルが海外に出ていくとともに、固定相場制(金・ドル本位制)のために金も出ていく金準備高の減少が起こります。
米ドルに不安を抱く人が金を買い、そして投機目的で金を買う人が現れ、アメリカの金準備高はどんどん減りました。
対策として、1961年に金プール制が取られました。欧米の中央銀行が保有する金をプールして、ロンドン金市場で金価格の変動を抑える制度です。
1968年には、金二重価格制となり、金に市場価格と公定価格が付くようになりました。
こうして1971年にニクソン・ショックが起こります。アメリカの大統領リチャード・ニクソンが金とドルの交換を停止したことにより、世界経済が混乱したのです。
同年の1971年12月、固定為替相場制維持を図る スミソニアン協定が結ばれました。ドルと金の交換停止を継続した上で、ドルを切り下げ、固定相場制を維持するのです。日本円については、米ドル1ドル360円から308円に切り下げられました。
1973年2月、再度のドル切り下げで固定相場制は崩壊し、変動相場制へ移行しました。 変動相場制へ移行後、ドル安・円高が急速に進んだため、日本はそれまでのように、輸出で大きな利益を得られなくなりました。
オイル・ショックと新自由主義
ヨーロッパでは、1973年にEMS (欧州通貨制度)が始まりました。1967年にスタートしたEC(欧州連合)で、単一国家同様の経済エリアを作ろうとし、その流れによるものです。 同年の1973年10月に第四次中東戦争(アラブ諸国対イスラエル)が起こり、第一次石油危機(オイル・ショック)が始まります。
日本はスタグフレーションに襲われました。1975年には、初めて赤字国債を発行します。ここで産業構造の転換が行われます。石油を使う鉄鋼・造船・石油化学から、家電・自転車・半導体にシフトしました。
1979年には、イラン革命が原因で第二次石油危機となります。産業転換した日本以外は、世界同時不況に見舞われました。
スタグフレーションでケインズ型のバラマキを行うと、物価がさらに上がります。また、財政赤字が拡大するので、長期は行えません。そこで生まれたのが、新自由主義です。
〇イギリス サッチャリズム マーガレット・サッチャー(在任1979~1990年)
〇アメリカ レーガノミクス ロナルド・レーガン(在任1981~1889年)
スタグフレーションでケインズ型のバラマキを行うと、物価がさらに上がります。また、財政赤字が拡大するので、長期は行えません。そこで生まれたのが、新自由主義です。
〇イギリス サッチャリズム マーガレット・サッチャー(在任1979~1990年)
〇アメリカ レーガノミクス ロナルド・レーガン(在任1981~1889年)
〇日本 金融ビッグバン 1996年
1981年にアメリカはロナルド・レーガンが大統領に就任します。ベトナム戦争の敗北、スタグフレーションで傷ついたアメリカを、強いアメリカに再生させるために実行させたのがレーガノミクス。結果として、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」に苦しむことになります。
そして日米貿易摩擦からのジャパン・バッシングが起こりました。
1985年には、プラザ合意で、アメリカの双子の赤字を解消するために、アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・日本が協力して、ドル安に誘導することになりました。
日本では、日銀が公定歩合を下げました。5%から段階的に2.5%にまで引き下げます。たとえ円高で不況になっても、銀行が日銀からお金を借りて、企業に回すことができるからです。
そして日米貿易摩擦からのジャパン・バッシングが起こりました。
1985年には、プラザ合意で、アメリカの双子の赤字を解消するために、アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・日本が協力して、ドル安に誘導することになりました。
日本では、日銀が公定歩合を下げました。5%から段階的に2.5%にまで引き下げます。たとえ円高で不況になっても、銀行が日銀からお金を借りて、企業に回すことができるからです。
ただ、円高は日本経済にプラスに働きました。輸入品も外国人労働者の人件費も安くなります。工場を人件費の安いアジアに作り、利益を得るようになりました。
すると、日銀から銀行が借りたお金がだぶつきます。そして銀行は、土地や株など投機的な商品を購入するように、人々に促したのです。投資家は、金を借りては株や土地を買い、ほかの人々も株や土地を買うようになって、値上がりします。
こうして景気がよくなり、バブルとなります。
すると、日銀から銀行が借りたお金がだぶつきます。そして銀行は、土地や株など投機的な商品を購入するように、人々に促したのです。投資家は、金を借りては株や土地を買い、ほかの人々も株や土地を買うようになって、値上がりします。
こうして景気がよくなり、バブルとなります。
![]() |
『懐かしきバブル時代』(宝島社) |
1987年には、世界的な株価大暴落であるブラックマンデーが発生しました。
しかし、日本の株価は上がり続け、1989年末には日経平均過去最高となる3万8915円を記録します。
バブル期は、地価・株価以外でインフレは見られませんでした。理由は円高で、輸入品が安く入ってきたからです。
地価はどんどん上がり続け、土地転がしと地上げ、過剰融資が繰り返されました。これが社会問題化し、1990年に土地基本法が制定されました。ここで、銀行からの不動産融資が減ったものの、住宅金融専門会社(住専)などノンバンクからの不動産融資が増えたのです。銀行は不動産融資総量規制に引っかからないリース会社(ノンバンク)を利用しました。
しかし、日本の株価は上がり続け、1989年末には日経平均過去最高となる3万8915円を記録します。
バブル期は、地価・株価以外でインフレは見られませんでした。理由は円高で、輸入品が安く入ってきたからです。
地価はどんどん上がり続け、土地転がしと地上げ、過剰融資が繰り返されました。これが社会問題化し、1990年に土地基本法が制定されました。ここで、銀行からの不動産融資が減ったものの、住宅金融専門会社(住専)などノンバンクからの不動産融資が増えたのです。銀行は不動産融資総量規制に引っかからないリース会社(ノンバンク)を利用しました。
不動産融資総量規制で銀行からお金が入ってこなくなった住専には、農協マネーが流れ込みました。
バブルは、「みんなが欲しがる商品」や「値上がり確実な株」「金儲けできそうなうまい話」などに冷静さを失った集団心理で群がることで発生し、期待感がしぼんだときにはじけます。
日本では1991年の地価の下落で、バブル崩壊が始まります。株価については、1989年末をピークに下がり続けていました。1990年末には日経平均株価は2万3000円台にまで下落しています。
日本では1991年の地価の下落で、バブル崩壊が始まります。株価については、1989年末をピークに下がり続けていました。1990年末には日経平均株価は2万3000円台にまで下落しています。
しかし、その時点ではバブル気分のままで、世間的に「バブルがはじけた」のは2~3年後でした。ちなみに、ジュリアナ東京の閉店は、1994年です。
銀行は過剰融資のせいで不良債権に苦しみました。バブル期に、将来的な地価上昇を見越して、現在の担保価値以上に金を貸したからです。
1995年、住専が破綻し、政府は6850億円もの公的資金を注入することを決定しました。実は住専は、大蔵省の天下り機関だったからです。住専8つの会社の総称で、そのうち7社が破綻し、破綻した住専7社中6社の社長が元大蔵官僚でした。また、農水省や農協、自民党の利権の温床でもありました。
同じく1995年には、円高が猛烈な勢いで進み、1ドル79円という当時最高値を記録しました。アメリカの対日貿易赤字の縮小策、メキシコ通貨危機、日本の生保・損保の円買いなどが、円高の背景として考えられています。
日銀は公定歩合を0.5%に引き下げました。しかし、銀行は「貸し渋り」を行いました。巨額の不良債権を抱えていたからです。ついでに「貸しはがし」も行ったのです。
1997年、バブル後の不況のさなか、財政構造改革法を政府は制定しました。不況対策として緊急経済対策をやっても効果がないばかりか、借金が巨額に膨らんできたからです。
〇消費税を3%から5%に引き上げ。
〇医療費の引き上げ
〇所得税の特別減税の中止
〇医療費の引き上げ
〇所得税の特別減税の中止
同年には、アジア通貨危機が起こり、対アジア融資の多くが不良債権化しました。
1997年11月、北海道拓殖銀行が破綻。
その1週間後、山一證券が自主廃業。
1998年、日本長期信用銀行(長銀)と日本債券信用銀行が破綻。政府は金融再生法で特別公的管理(一時国有化)にしました。
2001年、小泉純一郎が首相になると、聖域なき構造改革を打ち出しました。2005年には郵政民営化が行われます。
その後、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と続いて、後述のリーマン・ショックが起こります。
ニューエコノミーとリーマン・ショック
アメリカでは、1993年に大統領となったクリントンが、アメリカ経済の再生を目指し、産業構造を製造業や重工業中心から、金融やIT中心へとシフトしていきました。
そうなると、ドル安よりむしろドル高のほうがよしとされ、1995年から久々にドル高政策が実行されました。ドル高はアメリカの株式や債券の価値が高いということなので、世界中の投機マネーが集まってくるわけです。
そうなると、ドル安よりむしろドル高のほうがよしとされ、1995年から久々にドル高政策が実行されました。ドル高はアメリカの株式や債券の価値が高いということなので、世界中の投機マネーが集まってくるわけです。
アメリカの投資家であるジョージ・ソロスは、ポンド危機を引き起こしました。
1992年には当時割高とされていたイギリスのポンドに目をつけ、100億ドルに上る大掛かりなポンド売りをしかけたことで、ポンドが急落。イギリスの中央銀行は利上げやポンド買い支えなどを行いましたが、ポンドは下がり続けました。こうしてイギリスはERM(欧州為替相場メカニズム)を脱退し、変動相場制へと移行しました。
また、ITバブルも発生しました。1993年から今日型のウェブサイトが登場し、1994年にはネット上の仮想書店アマゾンがeコマース(電子商取引)の先駆として現れ、1995年には「Windows95」の発売とネット株取引が始まりました。
世界中の人々が、新インターネットで成長産業のIT企業の株を買います。
そんな中、1994年のメキシコ通貨危機(テキーラ・ショック)、1997年のアジア通貨危機(主にタイ・インドネシア・韓国で、自国の貨幣相場を米ドルと連動させるペッグ制〈固定相場制〉を取っていた)、そして、1998年のロシア金融危機とそれに続くロングタームキャピタルマネジメント(Long-Term Capital Management、LTCM、ヘッジファンド最大手でロシア国債に大きなレバレッジを利かせていた)破綻などで、行き場を失った投機マネーが世界中にあふれ始めました。
1999年から2000年にかけてIT関連ベンチャーの株価が急上昇し、「ニューエコノミー論」が提唱されます。ITの発展で景気循環が消滅し、成長が永遠に続く新しい経済が生まれたと考えられたのです。
しかし、FRB(連邦準備制度理事会)議長のアラン・グリーンスパンは「根拠なき熱狂」とこの状態を呼び、日本のバブルと同種のものという見方をしていました。
しかし、FRB(連邦準備制度理事会)議長のアラン・グリーンスパンは「根拠なき熱狂」とこの状態を呼び、日本のバブルと同種のものという見方をしていました。
2001年にアメリカの公定歩合(フェデラルファンド金利)が上がり、同年のエンロンの破綻(エネルギー大手企業の不正会計が発覚し、倒産)、9.11の同時多発テロなどでITバブルは崩壊しました。
ただ、アメリカは日本のような深刻な不況には陥りませんでした。不況対策・テロ対策でFRBが行った低金利政策で金余りが生じ、不動産を中心としたバブルへと移行したからです。
ただ、アメリカは日本のような深刻な不況には陥りませんでした。不況対策・テロ対策でFRBが行った低金利政策で金余りが生じ、不動産を中心としたバブルへと移行したからです。
不動産バブルの中心は、低所得者向けの住宅ローンであるサブプライム・ローン。大人気の金融商品となり、住宅もどんどん売れ、住宅価格は上がり続けました。しかし、手が届かない価格になってしまったら、買い手が減り、住宅価格も下がり始めます。先にローンを組んでいた低所得者たちが、返済不能になっていきました。返済不能者から担保の家を取り上げても、住宅価格が下がっているから、売ると損失が出ます。
2007年にサブプライム・ローンが問題化し、世界的な金融不安が始まりました。
2008年、リーマン・ブラザーズとAIG生命が経営破綻し、リーマン・ショックが起こります。
大統領のバラク・オバマは、リーマン・ブラザーズは救済せず、AIG生命を公的資金投入で救済しました。
2007年にサブプライム・ローンが問題化し、世界的な金融不安が始まりました。
2008年、リーマン・ブラザーズとAIG生命が経営破綻し、リーマン・ショックが起こります。
大統領のバラク・オバマは、リーマン・ブラザーズは救済せず、AIG生命を公的資金投入で救済しました。
ドイツやスイスでは銀行に公的資金が投入され、イギリスでは数行の銀行が国有化されました。アイスランドでは当時の首相が国家破綻の危機にあると宣言し、全銀行が国有化されました。
それから、サブプライム・ローンに流れていた巨額の投資資金が行き場を失って、原油や農産物などに流入し、ガソリンが高騰。
2009年にはギリシア問題が発生します。2009年の政権交代で旧政権の隠ぺいが発覚し、財政赤字が公表額よりはるかに多かったのです。欧州債務危機でユーロの価値は下落し、相対的に円が押し上げられて、2011年に1ドル75円という超円高になりました。
BRICSの台頭
リーマン・ショックの起こった2008年、中国は北京オリンピックを開催しています。
中国については、毛沢東が1949年に中華人民共和国を建国し、1958年に大躍進政策を提唱し、1966年に文化大革命で国をめちゃくちゃにしました。1976年に亡くなって、鄧小平が権力を掌握します。
中国については、毛沢東が1949年に中華人民共和国を建国し、1958年に大躍進政策を提唱し、1966年に文化大革命で国をめちゃくちゃにしました。1976年に亡くなって、鄧小平が権力を掌握します。
毛沢東が死亡してから改革・開放政策が推進され、1989年に天安門事件があったものの、江沢民(1993~2003年)、胡錦濤(2003~2013年)、習近平(2013年~)と国家主席が変わりつつも、一応の改革・開放政策が続きます。
2010年にGDPが日本を超えて世界第2位となった中国は、アメリカとの間で貿易摩擦が起こっています。
2017年には、陸上と海上で東西をつなぐ経済圏を形成する「一帯一路(one belt , one road)」構想が打ち出されました。
日本では、2009年に民主党政権となります。鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦と続きました。
2012年には再び自民党の安倍晋三内閣が発足しました。ここで、レーガノミクスをもじった「アベノミクス」、つまり、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」という経済政策が打ち出されました。
翌年の2013年には、公的債務(国債や借入金、政府短期証券の残高)は1000兆円を超え、消費税が2014年には8%に、2019年からは10% に引き上げられました。
2020年1月、新型コロナウイルスの感染者が国内で初めて確認されます。コロナショックで日経平均株価は3割暴落しました。
その後、菅 義偉、岸田 文雄、石破 茂と自民党内閣が続きます。
2017年、アメリカでは共和党のドナルド・トランプが大統領に就任しました。スローガンは「America First(アメリカ第一主義)」。国際協調よりもアメリカの国益を優先するというものです。米中貿易摩擦で両国が高い関税をかけ合い、アメリカの経済成長率は落ち込みます(グラフは世界経済のネタ帳)。同様に中国、そして日本も、経済成長率が落ちています。
2020年のアメリカ大統領選挙では民主党のジョー・バイデンに敗れたものの、2024年でトランプが返り咲きます。
2025年に打ち出した相互関税政策で、世界的に株価が乱高下し、トランプ・ショックと呼ばれています。相互関税とは、貿易相手国の関税が高ければ、それに合わせてアメリカの関税も高くするというもので、「日本は非関税障壁を含めると46%の関税をアメリカに課しているから、24%の相互関税を課す」とし、同様に中国に対しては104%、EUに対しては20%としました。
コロナ禍やウクライナ侵攻の影響で、2021年12月からインフレが続いていますが、相互関税政策でさらに悪化すると予測されています。
結局のところ、「食うか、食われるか」の競争を基本原理とする資本主義では、競争が進めば進むほど、勝ち組が減っていきます。超大国のアメリカが勝ち組から滑り落ちそうな状態を、政治家がどう対応するのかによって、太平洋を遠く離れた日本の片隅に住む一般庶民の生活も揺り動かされてしまうわけです。
Leave a Comment