行徳で塩業が始まったのは、結局のところ、室町時代の末期ということだろうか その4 江戸時代中期以降は舟運の町に

名寸隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島松帆の浦に朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ海人娘子ありとは聞けど見に行かむよしの無ければますらをの心は無しにたわやめの思ひたわみてたもとほりわれはそ恋ふる船梶を無み
現代語訳
名寸隅の船停まりから見える淡路島、その松帆の浦では朝の凪に玉藻を刈り夕方の凪に藻塩を焼く漁師の娘がいると聞くけれど、見に行くにも方法が無いので、立派な男子の心も無くか弱い女のように思いもしぼんで、さまよいながら恋しく思うことだ。船の梶も無いので。

 『万葉集』に収載されている笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)の歌です。

 この歌の「藻塩(もしお)」は、海藻(玉藻)を干してから焼いた灰塩(はいじお)です。ですから、海藻の成分も含まれています。

 やがて、干した海藻に海水をかけて、鹹水(かんすい、濃い塩水)を採取するようになります。そして鹹水を煮詰める煎熬(せんごう)というプロセスを経て、塩ができます。煎熬ではかまどで塩を焼くことから、「塩焼」とも呼ばれていたのではないかと推測します。

 奈良時代の8世紀には、海藻の代わりに、塩分が付着した砂を利用して鹹水を採る「塩地」という方法ができました。
 平安時代初期の9世紀には、採鹹地に手を加えるようになり、次第に「塩浜(塩田)」の形態に発達しました。海水を塩浜に導入する方法には次の2つがあります。
○入浜(いりはま)
 干潟が発達したところ(内海や河口など)では、干満の水位差を利用して海水を塩浜に導入しました。
  干潟をそのまま利用した「自然浜」から、堤防や海水溝、沼井(ぬい、鹹水溶出装置)などが作られるようになっていきます。  
○揚浜(あげはま)
 人力で海水をくんで塩浜まで運んできていました。

 あるデータで、行徳では「小規模な揚浜式の製塩が行われていたとされています」と書かれていたのですが、地形的に考えると入浜と揚浜を組み合わせたのではないかと思われます(個人的に)。

 江戸時代中期の1758年以降に成立した『塩浜由来書』によると、上総国五井(現在の市原市五井)では、古い時代から製塩が行われていたようです。ここも東京湾内で、養老川河口干潟があります。五井と行徳とは、かつての地形が似ているように思えます(今は違いますが)。


 行徳の人たちが五井に行き、製塩を学んできました。そして本行徳村・欠真間村・湊村の人たちが遠浅の干潟を塩浜にして、自家用の塩を作っていました。戦国時代には後北条氏に、年貢として塩を納めていました。

 関東入国後の徳川家康が、上総国東金近辺で鷹狩りへ行く際に、行徳の塩浜を見て「御軍用第一之事御領地一番之宝(御軍用第一の事、御領地一番の宝と思し召され)」と言い、資金を置いて行きました。
 徳川幕府は、新たに塩浜を作ることを奨励するために、1596年には行徳の人々の諸役を免除。家康・秀忠・家光の3代にわたって、塩浜開発のため多額の資金を投入しました。
 そして、塩を運ぶ水路として運河を整備しました。それが小名木川(1596~1615年、小名木四郎兵衛が開削)です。江戸川の分流だった船堀川を通り、開削された小名木川で隅田川にまで出て、江戸へと向かうルートでした。

浮世絵 行徳塩濵之図 初代広重(文化遺産オンラインより)



 行徳での製塩法は、入浜式笊取法(ざるとりほう)です。
 満潮のときの海面より低い遠浅の部分に、塩浜を作ります。塩浜の外周には堤防を築いて、内側を細かく区画して細い溝を巡らせます。塩浜に砂をまくと、溝の海水が砂に付着します。その砂を集めてザルに載せ、ザルの下には桶を置きます。砂に海水をかけると、砂についた塩分が海水とともに桶にたまります。こうして、鹹水ができます。
 粘土で作った土船(どふね、製塩用の土器)に鹹水を蓄えてから、釜で鹹水を炊いて煮詰めれば、塩が出来上がります。

 江戸時代前期は、行徳塩浜の全盛期で200町歩(1町歩は約1ヘクタール)以上の塩浜があったと算定されています。
 しかし寛永期(1624~1644年)頃から、瀬戸内産の塩が「十州塩」「下り塩」という名前で江戸で流通するようになります。そのため、行徳の塩の主な販路は、北関東や奥羽・信越に変化しました。

 検地のデータで、塩浜が減ってきていることがわかります。

初期:堀江・猫実・当代島(現在の浦安市)、新井・欠真間・湊・押切・伊勢宿・関ヶ島・本行徳・下新宿・河原・大和田・稲荷木・妙典(上下の両妙典村を合せて)・田尻・高谷・原木・二俣(現在の市川市、二子・本郷・印内・寺内・山野・西海神(現在の船橋市)の村々、前野村(現在の東京都江戸川区)
1629年の検地:堀江・猫実・二子・本郷・印内・寺内・山野・西海神が削除(ほか原木・二俣両村でも塩浜は確認されない)
1702年の検地:当代島・大和田・稲荷木・前野が削除

 1632年に、船掘川の三角の渡しから東側に新たに運河が開削されると、船堀川も含めて新川と呼ばれるようになり、この航路の独占権を本行徳村が得ました。そして江戸の日本橋小網町三丁目の行徳河岸から本行徳村までを、午前6時から午後6時まで定期船の行徳船が行き来しました。

 1701年に、成田山の照範上人が江戸深川永代寺で本尊不動尊江戸出開帳を行い、開帳の前後には成田屋(市川団十郎)が「成田不動尊利生記」を上演したことなどから、成田山詣でが大流行したようです。
 行徳船は、成田山詣でのために利用されるようになり、行徳は宿場として「行徳千軒寺百軒」といわれるほどに発展しました。江戸時代には一大スピリチュアルブームが起こり、成田山詣でをする行楽客なので、行徳に泊まるついでに寺を参拝することも多かったのだと考えられます。

 江戸時代中期から明治にかけて、舟運(しゅううん)、宿場、街道沿いの茶屋などで行徳が発展したことがわかります。同時に、塩業も縮小したのかもしれません。

成田土産名所尽 行徳新河岸市川
 
日本橋小網町三丁目~小名木川~新川~江戸川~本行徳村(今昔マップより、一部改変)



■主な参考資料
「日本歴史地名大系」平凡社
「改訂新版 世界大百科事典」平凡社

御塩づくり

たばこと塩の博物館

塩事業センター

船橋市デジタルミュージアム

江戸川区 塩の道
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