平将門伝説と八幡の藪知らずと土偶について。『葛飾記』の場合

 『葛飾記』は、江戸時代の 1749年(寛延2年)に、青山 某によって著された地誌です。

 八幡の藪知らずが「八幡知らずの森」という名前で、『葛飾記』で紹介されていました。その部分を、自分なりに意訳してみます。なお、専門家ではなく、誤りがあるので、実際に『葛飾記』を読んで確認してください。

 この森の中に入る人はおらず、もし入ってしまうとすぐに体が動かなくなって死んでしまい、誰も出てこないとのこと。
 なんと、これは平将門伝説と関係しているのです。
 平将門が、平貞盛が射た矢に当たったため、藤原秀郷に討たれてしまいました。それでも、まるで生きているかのように平将門が歩いて(?、「通り給ふ」)いたら、6人の部下(「近習」)がその場所まで後を追ってきて、土の人形として姿を現したのだとか。
 土の人形は最終的にこの森の中に入って、動かなくなりました。土であるがため、雨や雪で形が崩れて、地面の土と一緒になってしまったわけです。
 この土(人形だった土)を踏んだ人は、たたりによって死んでしまい、この森から出られないのです。
 そんな言い伝えがありますが、八幡の藪知らずは相馬郡(今の茨城県北相馬郡利根町・取手市・常総市・龍ケ崎市・守谷市・つくばみらい市と千葉県柏市・我孫子市だが、全域ではない)とつながっていないので、(平将門と6人の部下は
)松戸を通ってきたと考えられます。
 平将門は葛原親王(かずらわらしんのう、桓武天皇の皇子)の子孫なので、将門の部下の人が(葛飾郡にある?)八幡の藪知らずに伝承を残したのかななどとも思うことも。

 ところで、市川大百科事典平将門伝説の項目では、『平将門伝説』(著/村上春樹 汲古書院)の情報を引用しました。その中で「土偶」という言葉が出てきたのです。

 土偶って、あの土偶???

Wikipediaより

 ずっと不思議に思っていたのですが、土人形だったのですね。どちらかというと、ゴーレムに近いのかなと。


 ちなみに、1834~1836年(天保5~7年)に刊行された『江戸名所図会』だと、平将門が討たれた後、6人の部下(近臣)が、討ち取られた将門の首の後を追って、八幡の藪知らずに入り、倒れて動けなくなりました。そして「土偶人」になって現れたのですが、雷雨によって壊れたことになっています。

 このように『葛飾記』と『江戸名所図会』では、少々、内容が異なります。
 ただ、『江戸名所図会』は明らかに『葛飾記』の影響を受けているというか、「これって、いわゆるパクリ……」という箇所もありました。
 当時は著作権という概念がなかったでしょうから、他の本から丸写しというのも珍しくなかったと思われます。

■参考資料
『燕石十種』 第五巻(中央公論社)

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